遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざそうとするブログです。

「唯識のすすめ」を読んで~人は「分別知」の限界を越えられるか~

唯識論というのは、仏教の中の一つの教えです。
仏教の基礎学とも考えられているそうです。


むかーし買った本で「唯識のすすめ」というものがあり、機会があって今日読んでいたのですが、なかなかに刺激的な内容でした。


唯識のすすめ―仏教の深層心理学入門 (NHKライブラリー) | 岡野 守也 | 本 | Amazon.co.jp


唯識の教えの超ざっくりしたまとめ

唯識論について、0、1、2、3、4、5、8、無限、の教えでざっくりと説明されています。


0とは「空」。すべてのものは関わり合いの中で存在しており、本来はひとつであって、別々に独立して存在するものはないということ。
1とは一如、真如。あらゆるものはつながっておりひとつである、ということ。
2とは二空。「私」と「私以外のもの」がある、という考えは誤りであるということ。
3とは三性。「ばらばらのものがある」とみる性と、「ものはつながりあっている」とみる性と、「すべてはひとつである」とみる性。
4とは四智、8とは八識。八識とは五感で感じる五識、意識、無意識化にあるマナ識と阿頼耶識という、迷いの心。4智とは、五識、意識、マナ識、阿頼耶識の4つが転換した悟りの心。
5とは五位説、迷いの心から悟りの心に至るまでに五段階あるということ。
6とは六波羅蜜、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という6つの修行。


この中で、無意識下にあるマナ識と阿頼耶識が、唯識論の中で重要なポイントである、と書かれています。
(阿頼耶識といえばシャカ様ですよね!(年がばれますね))


マナ識とは「自分というものがあると思ってこだわる心」、阿頼耶識とは「命を維持しており、命に執着していく心」とされています。
なお阿頼耶識は人が生まれる前からあり、死んだ後も続くということから、遺伝子情報に相当重なるものがある、とも書かれています。
(これは私の思うところの「自己保存本能」「種の保存本能」に近いのかなと思いました。)


これらが、人が、正しく生きよう、よりよく生きよう、戦争を失くそう、と思っても無くしてこられなかった原因だとされています。


つまり「私」があると思い、こだわって、「私」から見て気に食わない人を排除しようとしたり、「私」から見て都合のいいように物事を進めようとしてしまう心、マナ識があるので、人がいくら「より良く生きよう」としても、それが叶わないのだ、ということです。


また、「そもそも、すべてのものは他とのかかわりあいの中で存在しているものであって本来は一つであり、それぞれがばらばらに存在するわけではない」のが世界の真実の姿なのに、それを「ばらばらである」と見えるようにしてしまっているのは、阿頼耶識の働きであるとされています。
この、ものごとをばらばらにして考える考え方は「分別知」と言って、仏教では凡夫の迷いの元とされています。


このように阿頼耶識とマナ識の間違った作用によって間違った認識をしてしまっているのが、私たち人間(仏教でいう凡夫)ということです。


この間違った認識から、怒りや欲や憎しみといった煩悩が生まれ、人間を様々に苦しめる。
またその煩悩のために取った悪い行動の結果が種として阿頼耶識に詰め込まれ、そこから煩悩のもととなって芽吹く。
こうして、意識→マナ識→阿頼耶識→マナ識→意識→(以下略)の三つの意識の間で、負の循環がおきてしまっているため、人の人生には苦しみがたえない、ということだそうです。


凡夫が仏になる方法ー阿頼耶識の種を入れ替える

このように、根本的に間違ってしまっているわれわれ人間ですが、ではこの間違いを正すことができないのかと言えば、そうではないらしいです。


正しい教えを聴き続けることにより、阿頼耶識に悟りの種をまき、悟りの香りを薫習していけば、やがて正しいものの見方ができるようになる、とされています。


このやり方がなかなかダイナミック。

「ですからこれを現代的にとりあえず脳生理学・脳科学的な言い方をすれば(中略)人間の脳は、過去からのさまざまの情報によって条件づけられている。確かに今までの条件づけでは、人間はさまざまな問題を起こすが、その条件づけを変えれば人間は変わりうる。

つまり、人間の大脳新皮質からさらに脳の辺縁系や脳幹に至るまで、人間の中に蓄えられている生命情報のいわば種類を次第に変えていく、記憶を変えていくことによって、人間は変わりうる。そういうことを、生理学的な側面からではなくて、心の側面から、しかも自分たちの修行体験の中から明らかにしていった。その概念がアーラヤ識だと思うのです。」


なんかすごいこと言ってません?


阿頼耶識は遺伝子情報に近いって書いてましたよね。
いわば修行すれば遺伝子情報を書き換えられちゃうの?
悟った人の遺伝子情報って、ほかの人とはちょっと違うの?!


修行って凄い!!


ちょっと興奮しました、すみません。
まあ、遺伝子自体まだ研究しつくされたわけではないので、現代科学では見えないところで、変わってるのかも知れません。


遺伝子と「自己保存本能」はどういう関係にあるのかな?
遺伝子が脳を作り出し、その脳の働きの一つが自己保存本能と呼ばれる、でいいのかな?


あーでも。
私的解釈をすれば。


自己保存本能は、守ろうとする「自己」の概念を果てしなく広げてゆけば、確かに、博愛というか宇宙愛というか、万物を大切に守ろうとする愛に変わらないこともない。


正しい条件付けを行っていくことによって、
保存しようとする「自己」の概念が、
「私」から「私と私の大切な人々」になり、
そこから「私の知らない人々」も「すべての生命」も含むようになり、
さらに発展して「無機物を含めた、ありとあらゆるもの」まで広がる、
ということになれば、


いろいろな苦しみや悲しみを生み出す元であった「自己保存本能」は、
そのままで、仏様のごとく、万物を憐れみ慈しむ心に変わると、
いえないこともなさそうです。


つまり、仏教の修行というのは、
正しい条件付けによって、
「自己」つまり「我」の概念を、
とてもとても狭い1生命体から、
すべてのもの、一如、真如の世界へと広げてゆくこと、
それを頭で理解するだけではなく、身体にしみこませていくこと、
といえるのかな?


唯識は21世紀の常識となるか

「唯識のすすめ」には、唯識の詳しい説明と、凡夫が仏になる方法、仏になった後の世界がどのようであるかについての他、西洋の心理学と唯識の比較なども載っていました。


結論としては、


・唯識論では人間の深層心理に関して、近代心理学に負けないほどの深い洞察がなされているということ。


・また、西洋の科学技術、つまりものごとを分析し分解して研究する、仏教でいうところの「分別知」によって発展してきた社会がいろいろな面で限界を迎えようとしている今、唯識の考え方が人類に必要とされているのではないか。
21世紀において唯識は、常識として必要になるのではないか。


ということでした。



この本が出版去れたのは平成10年、すでに16年前のことですが、まだまだ世間では「分別知」が主流です。


ただ私も、今ある様々な、戦争や格差や貧困などの問題について、その根源的な原因は人間の「わが身可愛さ」を尊重しすぎたことにあると思っていますので、その暴走を止めうるものがあるとしたら、


自分は自分だけで存在しているのではないこと
誰かの不幸せは、まわりまわって自分の不幸せにつながること


といった認識を、人間一人一人が持つことが大切かなあ、と思います。


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