遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

肩車されるのは私だった、という自覚。~少子高齢化問題について~

とある方のおかげで「縮小ニッポンの衝撃」見ることができました。
ありがとうございました。<(_ _)>


大筋は、5分間の無料配信の映像で見て取れた通りでした。
ただ、「若者が年収が少なくて結婚できない」という話で社長が出てきたときに、もうちょっと給料上げたら?と思ったり(まあそんな簡単には行かないんでしょうけど)、住民が行政サービスを肩代わりする取り組みの詳細が紹介されたときに、「東京が縮小していくときも、苦労するのは庶民=私なんだよな」、と実感したりしました。


実際に東京が縮小するときには、「ザマミロ」と思いつつ、私も否応なしに対応せざるを得なくなってくるわけです。


外国に行っちゃうって手もありますけどね(テヘペロ)
でもやっぱり日本が好きですしね。
(3.11のとき、かなり真剣に日本を出ていこうか悩みましたが、それでもやっぱり日本がふるさとなんだよなと思って、やめました)


胴上げ、騎馬戦、肩車

若者何人で老人を支えるか、というお話です。
今後どんどんお年寄りが増えて、若者の負担が増すばかり、という話のときに出てきます。


昔は胴上げのようにたくさんの人で支えていた。
ゆくゆくは肩車のように、一対一で支えなければならないときがくる、と。


【日本版コラム】胴上げ、騎馬戦、肩車 - WSJ日本版 - jp.WSJ.com

国立社会保障・人口問題研究所の統計によると、1970年時点では65歳以上の人口が1人に対して、それ以外の世代の人口は13人。つまり、13人で1人を支える「胴上げ」スタイルだったのである。それが、2010年時点では4人で1人を支える「騎馬戦」型に。2030年は2人強で1人をとなり、2050年にはほぼ「肩車」になるという。

これが2012年の記事。
胴上げ、騎馬戦、肩車のキーワードで引くと、だいたいこの年の記事がヒットします。


今や、騎馬戦の時代も遠くに去った感じですね。
最新の情報ではどうなんでしょうか。


2015年は2.3人で1人、2060年には? 何人の働き手が高齢者を支えるのかをグラフ化してみる(高齢社会白書:2016年)(最新) - ガベージニュース

今件においては現役世代(生産年齢)を15-64歳とし、高齢者を65歳以上と設定する。さらに後ほどの試算で用いるが、前期高齢者を65-74歳、後期高齢者を75歳以上とする(世間一般に使われている定義通り)。その上で単純に人口比を計算すると、1950年時点では12.1人の生産年齢人口で1.0人の高齢者を支えていたことになる。これが2015年時点では2.3人。さらに2060年の予想人口比率では1.3人にまで減少する。大よそ4人で3人を支える計算。

前にもこの記事を引用した気がしますがまあいいでしょう。
2016年6月の記事です。
上に引用した記事とは、現役世代の考え方が違うので、ちょっと数字が違いますね。
(上の記事だと赤ちゃんも支える側に入るのかな?)


2016年の今は、支える人が2.3人よりちょっと減った感じでしょうか。
三人で組体操みたいな?


ちなみに私が65歳になる頃は、と…
1.7人と1.8人の間…
まだ肩車にはならないけど…3人で2人をかつぐ組体操的な何か…


そのまま平均年齢85歳まで生きると…ああ、肩車ですね。


すみません肩車されるの私でした。


お年寄りは若い人に負担かけまくりでしょうがないな~なんて言ってたら、私が思いっきり負担かける見込みでした。ごめんなさい。


ごめんで済めば警察は要りませんよね。


曽野綾子さん、そんなおかしなこと言ったかなあ?

そこで「高齢者は適当な時に死ぬ義務あり」論です。
これそんなにおかしなこと言ってるかな?


曽野綾子氏の「高齢者は適当な時に死ぬ義務がある」との主張に大反発 - ライブドアニュース

確実に来る死を覚悟し、さまざまな機会や権利を若者へ譲る。医療サービスを誰しもが平等に受けるのは難しい時代、高齢者は死と真正面から向き合わなければならない。曽野さんが訴えたかったのは、そんな独自の「生き方」だったと言えるが、曽野さん自身が高齢だったことからか、ネット上で即座に反発の声が巻き起こった。

記事を直接読んだわけではないので、印象でものを言っているかもしれませんが、
「『いくらでも生きたい』は傲慢」
「権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』ことは肯定されない」
というのには、私は同意できます。


本人が84才だったのがいけないというなら、20代の人が言えばよかった?
でもそうしたら、「お前だって年を取ればわかる」「若者の傲慢」とか言われちゃうんでしょう、きっと。
「もの言えば、唇寒し」の世の中ですね。


あえて言うなら、死ぬ「義務」があるとは思わないです。
ただ、支えてくれる人がいるからといって寄りかかりまくっていたら、相手の力が尽きて共倒れになった、ということになりかねない状況なので、「支える側のことも考えよう」というだけのことです。


年金は国からもらうし、健康保険も病院で支払う額が安く済むという形で、支える人が見えにくくなっているのも、「寄りかかりまくり」の発生する原因かなと思います。
相手が苦しんでいても、それが直接は見えないので。


直接見えたら、やっぱり、ちょっと、考えてしまうと思うのです。
老い先短い自分の人生のために、未来の可能性がまだまだ広がっている若者の人生を、使い倒していいものかどうか。


暗黒の2050年を迎えないために

このままだと、未来はまさに、こういう風になりそうですよね。

最近『二〇五〇年』という小説を書いたんです。(中略)

 主人公は75歳で、妻に先立たれて、持ち主のいなくなった宅地跡に住んでいる。そういう年寄りはすぐ強盗に殺されるから、うちを捨てて人のいない荒地に隠れ住む、という想定です。嫌な場面があって、若者が老人ホームに火をつけて『年寄りを一挙に何人始末できた』って手柄にする。そういう話です。

超高齢化下流老人社会でどうなる日本の未来 | 書籍編集部コラム


これから一番大切なのは、いやな話ですけど『年寄りをどう始末するか』っていう問題ですね。どうしたら穏やかに、比較的幸福に、不当な長生きをしないようにするか。もう始めなきゃいけないことですけど、国も医学界も何もやっていらっしゃいません。国だけじゃなくて、長寿に奔走したドクターたちにも責任がありますよ(笑)。

いやーすごいこと言っちゃってますね。いいんでしょうか。
「始末」ってのはさすがにちょっと(引いてる)。だってどんな対象にせよ殺生は良くないですからね。

でもまあ、私たち生きるために毎日、いきものを殺してるんですけどね。生きるためだから仕方ないんですが、そうすると生きるためなら、これも仕方ないのかも知れませんね。AさんがBさんを支えていて、でももう支え切れないとなったとき、どうせAさんが力尽きたら、Bさんも自動的に力尽きるのであれば、Aさんが生き残るために、Bさんを「始末」しても仕方ないのかも知れません。


話がそれました。


どうしたら穏やかに、比較的幸福に、不当な長生きをしないようにするか」。これはすごく大事なことだと思います。
誰だって幸せに生きて、幸せに死にたいですもんね。
そして、長生きすることだけが幸せの条件じゃないですから。


生物としての本能は、いくつになったって、「死んでもいい」とは言わないんでしょうけど。
でも、あると思うんですよ。
「ああ、もう十分、ありがとう」って言えるときが、きっと、誰にでも。


そしていつその時が来てもいいように、準備しておくことが、私たち一人ひとりにとって大切なことなんだと思います。


不幸印のギフト

よく引用する、泉谷閑示さんの本「「普通がいい」という病」の中に、こういう一節がありました。

病気や苦しみとは、天からのギフトのようなもので、その中にとても大切なメッセージが入っている。だが、それは<不幸印>のラッピングペーパーに包まれているので、たいていは嫌がって受け取られない。しかし、それは受け取らない限り何度でも再配達されてきてしまう。

思い切って受け取ってその忌々しい包みをほどいてみると、そこには、自分が自分らしく生きていくための大切なメッセージが見つかる。

人口縮小の問題を、「移民」なんていう対症療法で片付けようとしても、たぶんきっと解決は無理。
また別の形のゆがみになって、日本人を苦しめるだけな気がします。


なぜこういうことが起きているのか。
どういう意味があるのか。


誰が悪い、これが悪いという風にすぐ何かのせいにするのではなくて、その中に含まれている何らかのメッセージに気づき、真摯に向かい合わないと、たぶん同じように、苦しみは続くんだと思います。


少子高齢化という問題とその苦しみには、生命はただ長生きすればいいというものではない、とか、個々人の欲望をひたすら煽りそれを満たすことをよしとする社会の発展には限界がある、というメッセージが込められている気がします。


人間の死生観と、幸せに生きるために何が必要かということについて、より深く、考えるきっかけを与えてくれているのかも知れません。

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