遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

早期リタイア後の時間をどう使うか。遊んで過ごすのも、それはそれでいいけれど

今日は少し時間をとって、来年の手帳におおまかな計画を書き込んでみていました。


というのも、おそらくは来年から早期リタイアして、自由な時間がたくさんできる…むしろ自由な時間しかない状態になるから。


何らかの形で、大まかでいいから計画を考えておかないと、有り余る時間に溺れてしまいそう。


時間のつぶし方ならいくらでも知っている

いえいえ、もちろん、計画なんてたてておかなくても、時間はいくらでもつぶせます。


家の中なら、ネットサーフィンに動画巡りにネットゲームにブログ。創作だってやりたい。
外に出るなら図書館にもカフェにも漫画喫茶にもスポーツジムにも行きたいし、ちょっとした旅行にだって行きたい。


そうこうしているうちに一日はあっという間に過ぎていくでしょう。
時間は、ありすぎて困るということはありません。


でもね。


漫然と「その時やりたいこと」をやって過ごすと、その時は楽しいと思いますが、後に何も残らなそう。
「あ~楽しかった!」という思い出だけが残りそう。もちろんそれはそれで価値のあるものだと思いますが。


そうやって過ごすと、せっかくの人生が、なんとなく輪郭のぼやけたものになりそうな気がするのです。


人生終わるときに、ああ、何をやり遂げたということもない人生だったな、という感じで、終わりそうな気がするのです。
もちろんそれはそれで否定はしませんが。


なんとなく。
なんとなくですよ。
心の底からアレをしたい!コレをしたい!という思いがあって、それをやるために行動して、できた!という充実感を味わいながら生きていくほうが、楽しそうに思えてきたんですよね。


ネットサーフィン、動画巡り、ネトゲ、図書館、カフェなどは、もちろん楽しい。
楽しいけれど、心の底からそれをしたい!というものではない。
というか、それらも、何らかの目的があってそれに向けての手段だと思うんです。
(あ、創作だけは、心の底からそれをしたいと思ってする、目的そのものですけれども)


そこをはっきりさせておきたい。私的にはですが。


お金は、生きていくには足りている。でも、生きているだけではきっと満足しない


私が早期リタイア用に用意している資金は、これまでとほぼ変わらない暮らしを日々、続けていくには、十分な額を想定しています。
(極端な資産課税、通貨切り替えなどがないという前提ですが)


家賃を払って、毎日ネット使って、それほどけちけちせずに電気・水道・ガスを使ったり、食糧・衣服・日用品・医薬品・趣味の本なんかを買っても大丈夫。


一日に1度くらい外食をして、週に2回くらいジムにも通って、月に一度くらい医者にかかって、月に1度くらい小旅行をして、年に1度くらい海外旅行をしても大丈夫。


暮らしていくだけなら問題ない。
でも、たぶん、それだけだと私は満足しない。


上に書いたように、時間をつぶす術ならいくらでも知っている。
でも、時間をつぶすだけでもきっと満足しない。


私は贅沢なのかな。


というか、早期リタイアできる、ということが明確になってきて、だんだん気持ちが落ち着いてきて、そう思えるようになってきたのかも知れません。


逃げの早期リタイアから、攻めの早期リタイアへ

最初はとにかく、辞めたかった。
早く辞めて、自分の心と身体を休ませてあげたかった。


灰色のサボリーマンサラリーマン人生が、この先も延々と続いていくと思うだけで、もう心がつぶれてしまいそうに苦しかったのです。
未来に希望がない、というやつでしょうか。


辞めた後のことは、極端な話、生きていければそれで良いじゃない、と思っていました。


でも今は、変わってきている気がします。


苦しいことから逃げる手段としての早期リタイアではなく(もちろんそれはそれで価値のあることだと思います)、新しい人生を始める手段としての早期リタイアとして、考えられるようになってきた、という感じです。


だからこそ、せっかくの新しい人生を、適当に遊んで過ごすだけではもったいなく思えてきたのかも。


物理的に贅沢ができないならば、精神的な贅沢を追い求めてみる

ちょっと考えてみたんです。


早期リタイアが、文字通り「早くリタイアする」ということに過ぎないならば、15年か20年か後、普通の人が普通に定年を迎える時期になれば、早期リタイア者と定年退職者の間に、差はなくなります。


その時、その15年か20年の間に何をしたか?が重要になってくる気がするんです。
その15年か20年のアドバンテージを、ただ遊ぶことに使ってしまっていいんだろうか?


もちろん、身体がまだ元気なうちに、遊びたいことを遊びつくすというだけでも、十分に意味はあるのかもしれませんが。


ただ、遊びつくすといっても、私の早期リタイア資金は、そんなに多くはない。
生きていくには十分だけど、贅沢を尽くすことはできない。

例えばミラコスタの最上級スィートルームに一カ月滞在とか、あんま意味ないな
ヨーロッパ旅行の往復をファーストクラスでとか、コスパ良くないな
できないことはないけれど、その分、生活を切り詰めないといけなくなる(笑)


物理的な贅沢をするには限界がある
だったら、ささやかなこの人生、ささやかに遊んで暮らすだけよりも、「こうなりたい」と思う姿に近づこうとすることによって、精神的に贅沢に生きようとしてみるのも、わるくないと思うのです。



まあ、がんばってはみたけれど、結局は遊んで暮らしただけだった、となるかもしれませんが、それはそれで、いいかなと思っています。

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