今の社会への自然な反動としての、早期・セミリタイアという生き方
どうもあれは躁転ではなかったようです。
今日、薬の効きすぎを心配して、メンタルクリニックに行ってきたのですが、「上司や周りの人が心配するくらい仕事しすぎちゃうようなことがあったらまたおいで」、と言われました。
イケイケになりすぎてイライラする件は、一日一回を二日に一度にすることで様子見となりました。
周りに止められるくらい、仕事しすぎちゃうことかあ・・・
私に限ってその心配はないな!^^
それはさておき。
以前に、↓こういう記事を書きました。
早期リタイアは「(今のような働き方では)働きたくない」という意思表示これは「このような世の中では働きたくない」と言い換えてもいいかなと思っています。
今日はそのことについて少し書いてみます。
行き詰る大量消費社会から、「イチ抜けた」!
早期・セミリタイアしている人は、できるだけ働かないで生きていくために、少ないお金をやりくりして質素に暮らしていることが多いようです。
一方で、下流老人、下流中年といった言葉を最近よく耳にしますが、質素に生きているという点では、多くの早期・セミリタイア者も同じように見えます。
ただ、「下流」という言葉は否定的なイメージで使われることが多いですが、
早期・セミリタイアをした人たちのブログには、ネガティブな雰囲気はあまりありません。
それは自分で選んでそうしているからかな、と思います。
ミニマリスト、シンプリストな人が多いのかな。
「貧乏」というより「清貧」というべきかも。
自ら選び取る、というところもポイントかもしれません。
というかそもそも、
貧乏が悪いことで負け組で、お金持ちが良いことで勝ち組とか、
もうそんな言葉のネガティブなイメージに惑わされなくていいのかも。
大量消費社会、自由資本主義社会が押し付けてくる価値観に惑わされることなく、
あえて「下流」、「貧乏」で生きていく。
これって、行き詰った社会から「イチ抜けた」して、次の来るべき新しい社会への準備をしているようにも、見えませんかね。
あ、ちょっと言いすぎかな?
ところでどっちが「貧乏」ですって?
ムヒカさんが、「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」っていう言葉を、教えてくれました。
三菱のデータ不正にマスゾエさんの政治資金疑惑、パナマ文書と、この世は悪の花盛り。
ズルをしてでも、儲ける。
人の金(税金)を使って、贅沢をする(自分もお金持ちなのにね・・・)。
既得権益に、しがみつく。
うーむ。
そうですねこっちのほうがよっぽど、ほんとの「貧乏」ですよね。
でもこれも、
「あれも買えこれも買えもっと買えまだ使えても捨てろ買い換えろ」、と。
「人を押しのけてでも法の隙間をかいくぐってでも誰よりもお金を稼げ」、と。
そうすることが良いことだ、との大号令のもとに突き進んできたこの社会、
その価値観に囚われて、踊らされた結果じゃないのかな。
そう考えてみると、
モノやお金に頼らない幸せを求める。
「必死に働くのは当たり前」という常識に囚われない。
会社員という安定的な地位(既得権益)を捨てる。
・・・という、ある種、世捨て人である早期・セミリタイアの生き方は、
今の社会に対する反動・抵抗でもあり、より自然な価値観の体現ともいえるのではないでしょうか。
あ、ちょっと言いすぎかな?
これから先、どういう社会になっていくのか分かりませんが、
私は早期・セミリタイアを選ぶ人が、もっと増えればいいなと思っています。
(そういう余裕のある社会になって欲しいとも思うし。)
そのほうが「豊か」な未来が待っていそうな、そんな気さえ、してくるのです。