遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

「~ねばならぬ」からの解放と、理想の「働くこと」の形について

風邪が…
治らないっ!


今年の夏風邪はしつこすぎます。
14日からひいてるからもう2週間近く経つのに、まだ、薬が切れると咳とハナミズが。
いや、薬に頼りすぎて治らないのか…?


いま飲んでる薬が明日終わるので、その後、少し様子を見てみるつもりです。


メンタルクリニックを受診して

今日はかかりつけのメンタルクリニックを受診してきました。


夏休みにゆっくり休めたので調子が良い、ということを伝えると、
 「良かったですね!
  それじゃあ、このままお仕事のほうも続けられそうですか?」
ときました。


 「いえ、近々辞めるつもりです。
  調子がいいのも、その目処がある程度ついているからだと思います。」
と言うと、


 「でも安定した収入はあったほうが…」
 「収入がなくなって貯金が目減りしていくと、それが大きなストレスになるので…。
  これまで診てきた患者さんの中で、会社を辞めた人は皆さんそうだったので」
等と仰います。


またこういう話になるのか、と、正直ちょっとイラッ☆彡としました。


人は定職についていないと生きていけない、
生きていくためには定職についていなければならない、
という「常識」と、また対決しないといけないのか、と感じたからです。


もうそういう固定概念からは、抜け出したいのに。


とはいえ、お医者さんとしてたくさんの患者さんを診てきて、その実体験から仰っているのでしょうから無下にもできません。


 「でも、生きるための仕事でストレスになって心身の健康を損なったら、
  元も子もないですよね。」
というと、
 「そこのバランスが大事ですね」
と返ってきました。


生きるために仕事をしながら、心身を壊されない程度にストレスを受け流して、うまくバランスをとって生きていく。
それは確かに、普通に推奨される生き方かなあと思います。


ただ、私はもうそういうのは嫌なんですよね。


生きるためには定職を持つべき。
定職についていなければならない。
この「~べき」「~ねばならない」が、もう本当に、とことん嫌になってしまっているのです。


言い方が「~したほうがよい」でも同じことです。
義務、推奨、いずれにせよ「こうしたほうが望ましい」という方向づけ。
一定の型にはめる行為。
これがもう、嫌で嫌でたまらないのです。


もう、「~べき」「~ねばならない」は捨てて、
「~したい」という、自分の中の自然な欲求に従っていきたいのです。



…ということを言っても、たぶん伝わらないと思ったので、今後仕事をしなくても平均寿命まで生きられそうな貯金はあることと、


「生きるためにお金を稼ぐ時期は、もう過ぎたのかな、と思っています。
もう4○才で、人生も折り返し地点を過ぎましたし。
残りの人生をどう生きるか、ということのほうを大事にしたいと思います。」


というようなことを話して、今日は終わりました。


「~ねばならぬ」ということの弊害

何事もそうだと思うのですが、「~せねばならぬ」「~であらねばならぬ」となったとたんに、それは重く苦しいものになる気がします。


生きることもそうです。
辛くても生きなくちゃならない、とか言うから、「死にたい」とか「なぜ生きなきゃいけないんだ」とかいう気持ちも出てくるんじゃないでしょうか。


本来、生きるのは義務じゃなくて権利のはずです。
自然な状態であれば、生物は生きたくて生きるのであって、決して、「生きねばならないから」生きるのではないはずです。


※「~だから生きないといけない」とかいう「生きる理由」は、いまのところの私の考えでは、単なる言い訳にすぎないと思います。
もちろん、人生の中で「このために生まれてきたんだ!」と心から感じる瞬間がないとは言いません。ただ、それは結果として感じるものであって目的として求めるものではないと思います。


自然な状態では自然と「生きたい」と思うはずの存在がなぜ「死にたい」と思うかと言えば、「今のままでは生きていたくない」つまり「今の生き方が苦しくて仕方がない」というメッセージではないでしょうか。


「働く」ことも、本当はそうだと思うんですよね。
それは、生きたいから働く、というだけではなく。
適度に身体や頭を使い、自分や他人の役に立つことをするのは、楽しいことのはずです。

鳥捕りは二十疋ぴきばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾てっぽうだまにあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、却かえって、

「ああせいせいした。どうもからだに恰度ちょうど合うほど稼かせいでいるくらい、いいことはありませんな。」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣となりにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。

宮沢賢治 銀河鉄道の夜


この鳥捕りのように、適度に身体や頭を使って働くことはそれ自体、快感を生み出します。
それに働く対価として与えられる、食べ物や飲み物であったり、感謝や賞賛、そういったものによって、様々な欲求が満たされて快感を感じられる、本来はそういう仕組みになっているはずです。


なので、
「働きたくないでござる!絶対に働きたくないでござる!!」
「働いたら負けと思っている」
というのは、その人の想像する労働者像が(あるいは「普通」として押し付けられる労働者像が)あまりにも本来のあり方から歪んでいるので、「そういう形では」絶対に働きたくないでござる、ということなのではないかと思います。


理想の「働くこと」の形

じゃあ、その本来のあり方とはなんだといえば、
やっぱり、
自分に与えられた才能、技量、能力を最大限に発揮して、
それによって自分や他人の役に立つ何かを行うこと。
なのかなと思います。


けっこう、あったりまえのことに見えますよね。


でも、この当たり前のことが、今の日本社会では、多くの人ができてないんじゃないでしょうか。


子供の時から団体行動をしつけられ、個性はおさえこんで、規則や「大多数の他人」に合わせることを教えられ。
良い学校、良い会社に入るために必要とされる「学力」は、現状おおむね、「記憶力」と置き換えて問題ないでしょう。
そういう「周りに合わせる力」と「記憶力」だけを磨いて生きてきて、いざ社会人となったとき。


いきなり、自分に与えられた能力を最大限に発揮することなんて、できるでしょうか?
…ほとんどの人にとっては、無理な話だと思います。


もちろん、そうできる人もいるのは否定しませんが。


もし、小さい時から、自分の能力、自分の個性を尊重され、「それを活かして自分と人の役に立てるためにはどうすればいいか」を考える時間や、トライ&エラーする時間を与えられたなら。
もっと自然な「働き方」のできる人が増えていくんじゃないかという気がします。


(「ゆとり教育」って馬鹿にされがちですが、いま、スポーツの分野で目覚ましい活躍を見せている人には、ゆとり世代が多いんですよね。
個性重視、悪くないと思うんだけどな。
まあ知り合いによると、職場に新社会人として入ってきたゆとり世代はどうしようもなく使えないパターンが多いらしいので、一概には言えませんけれども)



私自身は、「周りに合わせる力」と「記憶力」だけで良い学校、良い会社と辿ってきた一人です。
その挙句に、会社生活でメンタルに問題を抱え、出世もできず、ノンワーキングリッチ(本当はリッチでもないですけど)を自認するような状況に陥っています。


その結果として「早期リタイア」という選択肢にたどり着いたわけですけれども、考えてみたらこれは、遅まきながら自分の育てなおしをしたい、ということなのかもしれません。


早期リタイアで手に入る時間で、やりたいことはたくさんありますが、
・「自分に与えられた能力を最大限に発揮し、かつ有効活用するにはどうすればいいか」を考えたりトライ&エラーすること
・理想の「働くこと」の形について、じっくり考えてみること
なども、やれたらいいな、と思います。

×

非ログインユーザーとして返信する