遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

なぜそれほどまでに「失職」を恐れるのか

今日は一日、外出の予定が、昨晩の電話で無しになったので、「お休みボーナス」をもらった気分でこれを書いています。
ちょっと筆が滑って、訳の分からないことを書いているかもしれません。
(あ、いつもか。)


さて、今日のお題はこんな感じ。


生きることはそんなに大事か

もちろん、大事だと思います(出オチ)。


…という話ではなくて、人がなぜそんなに定職につくことに執着するのか、という話です。
私の家族も、友人も、メンタルクリニックの先生も、口をそろえて
「安定した収入はあったほうが良い」
と言います。


それはもちろんあったほうが良いと思います(出オチその2)。



…と、ここで終わると話が終わってしまうのですが、私は最近、「なんでそこまで?」と思うのです。


お金が必要なのは、結局、生きていくためにだよね。
働くことが苦しくても、それにしがみつかなければならないというのは、
生きるためだよね。
定職があったほうが良いのは、それがない状態では、
生きていくことに不安があるからだよね。


それに将来、年老いて働けなくなっても、介護が必要になっても、
生きていきたいから、お金がいくらあっても足りない。
だから働き続けなければならない、ということだよね。


…でも、そうまでして、ずっとずっと生き続けたい?
そうやって生きて「何をするの?」


なぜそこまで、「生き続ける」ことに執着するの?


ずっとずっと生きていたい。でも「長生きはリスク」の矛盾

やっぱり、生命として生まれたからには、生きていたいと願うのは自然なことだと思います。


昔っから、権力者が最後に求めるものは不老不死の薬、と聞いたことがあります。
人として望むものすべてを手に入れた権力者が、最後に求めるのは、やっぱり老いと死からの解放なんだなと、そこはどれだけ偉かろうがお金持ちだろうが、同じなんでしょうね。


ただ、じゃあ、どんな状態でもいいから生きていたいのか?というと、そこには疑問符がつきますよね。


いま、科学と医学の発達によって、生命活動だけは少しずつ延長できてきているようです。
昔なら治せなかった病気も怪我も治るようになったし、老衰を止めたり遅らせたりする研究も盛んに行われているようです。


でも一方で、認知症や寝たきりの状態の人もたくさん増えている。
特に日本では、自力での生命活動を行うことが難しくなっても、生命維持装置を付けてでも長生きさせようとします(海外では、自分で食事を取れなくなったら無理に「生きさせる」ことはしないそうです)。


認知症で家族や友人の顔もわからなくなったり、生きるために手厚い介護や医療を必要とする生活が続くこと…それは、本人にも周りの人にも、精神的・金銭的苦痛をもたらすことが多いようです。


そうした形で命を長らえることになるかもしれない、というのは、多くの人にとって将来の恐怖であり、いまや「長生きはリスク」と認識されるほど。


「生きたい」というのは、生命体本来の自然な願いです。
ですが意識を喪失して回復の見込みがほぼない、あるいは一個人としての認知の機能をほぼ失ってしまってまで、「ずっと生き続けたい」と願うものなのでしょうか。


それは嫌だと思うにしても、例えば衣食住すべてに他人の介護を必要としたり、そこまでいかずとも老いて心身の自由が利かなくなり、自らは何も生産的なことが行えずに金銭や他人の労力などを消費するだけの存在になっても、生き続けたいでしょうか。



…そうまでしてでも生き続けたいと思うから、老後破産や老後の資金不足に対して不安や恐怖を持ち、今現在も必死に働いて、かつ
「今後もできるかぎり働き続けて収入を得たい」
と思う人が大変多いようです。


でもそれは何かしら、生命の自然な姿というか、自然の摂理からは外れてしまう、一種の病的な姿にも思えます。



…ちょっと危ないところまで踏み込みました。
今ここで、現在の医療や介護の在り方、高齢化社会の問題に物申すつもりはないです。
(尊厳死、安楽死には賛成です。自分がそういう状態になったら、そうさせてほしい、と思います)


ただ、
「どんな状態でも、どこまででも生き続けたい、と、
そこまで執着する「生」、そこまで避けたい「死」とは何なんでしょうか。」
ということです。


始まったら終わりがある

そもそも、生まれたからにはいずれ、死なないといけない。


生命の始まりはいつと言えるのか…私たち個々人にとって、という意味であれば、おそらく受精卵となったとき、なのかな。おぎゃあと産まれたときを、始まりとする考え方もあるかもしれません。


いずれにせよ、あるとき、一個体としての生命活動が開始された。
そして、今現在、生命活動を行っている。
やがて、身体を構成する細胞が老いて機能を失くしてゆき、心臓が止まり、脳の活動が止まり、全身の生命活動が停止して、死を迎えるであろう(と思われる)。


このステップを外れることは、今現在は、人類の叡智を結集したとしても、不可能です。
(若返りの薬なんかも開発され始めているらしいですが)


いずれ必ず来る「死」を、なぜそんなにも恐れ、忌み嫌うのでしょうか。


あえて理由を挙げてみると、
・愛する対象と別れるのがつらいから。
・人生をかけて築いてきたもの(財産、栄誉等など)を失うのがつらいから。
・そもそも自分自身を喪失するのがつらいから。
等があると思います。


こうしてみると、「死」に対する恐怖は結局、「失うこと」、何かとの「分かれ」なのかなあ、と思えてきます。
何かを失うのはつらいことですが、「死」は、「生」きていた時に持っていた(と思っていた)すべてと一度に分かれなければならないのですから、一番つらいことです。


要するに、「生」に執着し「死」を恐れ忌み嫌うのは、
自分の「生命」と「分かれる」ことが、
一番つらいことだからなのではないでしょうか。


当ったり前のこと言うなよ!
と怒られてしまいそうです。


でも待ってください。
「生」と「死」はそもそも分かれているものなんでしょうか。


また変なことを言い出してすみません。
でも、生と死はもともと、「生まれたら死ぬ」という関係でつながっています。
また、時間軸上で、「生」の線の上を辿っていくと「死」があります。


その二つが別々のもので、「生」の世界を失って「死」の世界へ無理やり移動しなくてはならないと思うから、苦しいのではないでしょうか。


不可分な存在を分けるから、「苦」が生じる

生と死を「分ける」ことから生じる苦しみというのも、あるんじゃないでしょうか。


小学校の頃に読み、とても感銘を受けた詩があります。

「鹿」


鹿は 森のはずれの

夕日の中に じっと立っていた

彼は知っていた

小さい額が狙われているのを

けれども 彼に

どうすることが出来ただろう

彼は すんなり立って

村の方を見ていた

生きる時間が黄金のように光る

彼の棲家である

大きい森の夜を背景にして

村野四郎 詩集「羊亡記」より


桜は散るから美しい、と言うのではないです。
死があるから生きていることが素晴らしい、と言うのでもないです。
それらは生の美化でしかなくて、結局は生と死が別々のものという認識からくる表現であり、実際の「生への執着」と「死の恐怖」の前にはむなしい強がりでしかないからです。


でも、この「生きる時間が黄金のように光る」という言葉の力強さはどうしたことでしょう。
今まさに死ぬ、という絶望を知った時に、「いま、いきている」ということが、たとえ一瞬であれ、大きな輝きを放つ。


光は闇の対語であり、光なくしては闇がないように、闇がなくては光がないように、死がなくては生もない。そのふたつは分かちがたく結びついている。
それを察知するとき、一瞬であれ、「死」と、その暗黒を背景に輝く「生」は、一つになる。
「生」と「死」が二つの世界として切り離されている(と思っていた)とき、二つの世界を移行する際に発生する(と予想された)苦痛は、一体化した世界では存在しません。


墓の主 「お前は危険な闇だ。生命は光だ!!」 

ナウシカ 「ちがう。いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

宮崎駿「風の谷のナウシカ」より


また「彼の棲家である大きい森の夜」、それは死の暗い絶望を象徴しながら、同時に「すみか」つまり安住する場所、帰るべき場所という、安らぎをも暗示しています。
一日の終わりに、仕事を終えて我が家へ帰る、その夕暮れの中の一本道を辿るように、生を惜別しながら、安息の死へと帰ってゆく。
「死ぬこと」とは、そういうことともいえるのではないでしょうか。


死は涼しき夜だ。 

生は蒸し暑い昼間だ。 

早や黄昏そめて、私は眠い。 

昼間の疲れは私に重い。

ハイネ 「死は涼しき夜」より


仕事が終わったなら、もう、仕事道具は要らないのです。
だから一つ一つ手放して身一つになって家に帰ってゆく。そして安息の眠りにつくときは、自分自身(の意識)という荷物も手放します。


眠りは小さな死、死は永い眠り。


であれば、それほどまでに「生」に執着し「死」を恐れ忌み嫌うことは、ないのではないでしょうか。


「だから無職は怖くない」ではなくて…

だから無職は怖くありません。
…というつもりはないですけどね。


「こういうわけで、そんなに「死」は怖くないので、
遠い将来までずっとずっと「生」き続けるために、
今現在、無理して苦しい労働を続ける必要性をそれほど感じません。
だから会社やめます。」
と、いうことなのですが、これを言って、聞いた相手が納得してくれるとは、思えません。


おそらく「失職」による問題として相手が想像するのは「生活不安」「老後の不安」であって、「生と死の問題」ではないだろうからです。
でも、「生活不安」「老後の不安」って、結局は「生き続けたいが、それが叶わないかもしれない不安」であって、本質的には同じ…だと思うんですけどね。



あと、誤解しないでいただければ幸いなのですが、
今現在、自分や家族の生活のために、職探しや苦しい仕事をがんばっている人に、
「これこれなのでそんなにがんばらなくていいよ」
とか言うつもりは、毛頭ありません。
いまを生きるための活動、労働はとても大切なものだと思います。



ただ、私の周りの
「定職信仰」?
「正社員信仰」?
「働ける限りは働け信仰」?
が、あまりにも根強いもので。


こちらが、
「平均寿命まで、貯金でやっていける目処が立った。
今の会社勤めは負担が大きいので、辞めようと思う」
と言っているのに、それでも、
「辞めるな」
というのは、一体全体なぜなのかと。


なぜそこまで…と思って考えているうちに、生と死の問題にまで行きついてしまった、という感じです。


それは日本の労働の制度というか労働の形態が、(いまはだいぶ崩れてきましたが)「終身雇用前提」「正社員の解雇が非常にしづらい」、だから「敷かれたレールから一度降りたら、もう戻れない」というせいもあるのでしょう。


でも実際のところ、正社員を辞めたら、どこまでひどいことになるんでしょうね?


私は、大していまと変わらないんじゃないか、と思っています。
良いことも、悪いことも。
その意味で、早期リタイアに多大な期待を持つこともないと思っています。


ただ、
「そのほうが自分に合うんじゃないかな」
「そういう時が来たような気がする」
と感じているだけです。


「死ぬる時節には死ぬがよく候」

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候

          是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ


と、見舞の一文の中に書かれていました。その意味は、「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、これが災難にあわない秘訣です」ということです。聞きようによっては随分と冷たい言葉です。しかし、これほど相手のことを思っての見舞いの言葉があるでしょうか。

法話「死ぬる時節には死ぬがよく候」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト


良寛さんの言葉です。
辛くても苦しくても、それをそのまま受け入れるということ。
受け入れることによってそれを「苦」でなくしていくということ、と私は受け取っています。


私も、こうして早期リタイアできる資金の目処がつくまで、辛くても苦しくても働いてきました。
って、怠け者なのでそんなに(というかほぼ)辛抱はしていませんが。


働く時節には働くがよく候、
リタイアする時節にはリタイアするがよく候、
なんてね。


いまがどの時節なのか?
こうやって考えて悩む時節、なのかもしれませんね。

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