遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

マズロー説の「欲求」と仏教の「欲」について

今日、仕事をしながら、ふと「マズローの欲求段階説」も仏教でいう「五欲」も5だけど、対応付けられないかな?と思いつきました。
(11月は忙しいとか言っといて何だコイツと思われそうですが、仕事の最中にぽかっと時間が空くことがあるので…)


結論から言えば、単純な対応付けは無理でした。
でも根本的なところで通じるものがあったので、今日はそれについて書いてみます。


まずは、無理やり対応付けてみる

まずは、おさらい。


マズローの欲求段階説とは、人間の欲求は段階に分けることができ、基本的に下のほうから満たされるにつれて上の段階の欲求に移っていく、というお話。
1.生理的欲求
2.安全の欲求
3.社会的欲求 / 所属と愛の欲求
4.承認(尊重)の欲求
5.自己実現の欲求


詳しくはこちら。
自己実現理論 - Wikipedia


仏教の五欲とは、いろいろあるみたいですが財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲をいうこともある、ようです(コトバンクより)。


まず、食欲と睡眠欲は「生理的欲求」にぴたりとはまりますね。
色欲は「生理的欲求」でもあり、「所属と愛の欲求」でもありそう。
財欲は、「安全の欲求」と関係が深そうかな?あと、「承認(尊重)の欲求」の低いほうにも関連付けられそう。
残る名誉欲は、「社会的欲求」と、「承認(尊重)の欲求」の低いほうに対応付けられそうです。


こうしてみると、(ちょっと無理やりかも知れませんが)お互い似たことを指示しているというか、片方にあってもう一方にないのは「自己実現の欲求」くらいかな、という感じですね。


ちなみにマズローさんは1~4を「欠乏欲求」、5を「存在欲求」と分けていたらしいので、仏教でいう五欲は「欠乏欲求」に対応している、ともまとめられそうです。


マズローの「自然な欲求」と「神経症的な欲求」

ところで仏教で欲というと、良くないものとして挙げられているイメージですが、マズローのほうは必ずしもそうではない感じですよね。


実はマズロー説では5段階の欲求を、「自然な欲求」と「神経症的な欲求」に分けているそうです。

*神経症的欲求

欲求は基本的に良いものだが、発達段階の適切な時期に適切な欲求を満たしていないと、神経症的な様相を示すことがしばしばある。承認をあまり得られずに育ってしまうと異常に地位、権力、名声に執着するようになりがちになる。愛情を欲しいという正当な欲求が満たされず忘れられると、本人も何を求めればいいのかわからなくなり、果てしなく金を欲しがるということになり兼ねない。その場合いくら金持ちになっても満足することはない。

Welcome to Our Company : Home


自然な欲求は、満たされればそれ以上、求めることはなくなります。
ご飯もおなか一杯食べればもう欲しくなくなりますし、寝ることもそう。他の欲求についても、同じことが言える。
適切な時期に適切に欲求が満たされれば、それで満足して、次の段階へ向かうことができる。


でも、適切に与えられなかった場合は、欲しいものを正しく求めることができなくなってしまう、というのですね。
だから、いくら手に入れても、一向に満たされず、もっともっとと欲しがることになる。


食欲でいえば、まさに過食症がそれでしょうか。
本来ならばお腹いっぱいになればもういらないとなるはずなのに、食べることをやめられない。


仏教でいう「五欲」は、人間を苦しめる元として定義されています。
どうやらそれは、この歪んでしまった欲求、「神経症的な欲求」を示しているようです。


「神経症的な欲求」の治し方

それでは歪んでしまった欲求はどうやって治したらいいのか。


マズローによれば、「何が満たされなかったのか、何にこだわっているのかを自覚し、満たされなかった当の欲求を、自然な形で充足すれば治療できる。」とのこと。


その「自覚する」っていうの、なかなか難しそうですけどね…!


神経症的な欲求の起きてしまう原因について、違う角度から見る説もあります。
「「普通がいい」という病」の中で、泉谷さんはこんな風に語っています。

人間を一つの国家にたとえてみると、現代人の多くは、「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけれども、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。

(中略)

たとえば摂食障害の場合、食欲がストライキを起こせば拒食、暴動を起こせば過食になります。

「頭」つまり理性によるコントロールが、自然な心と身体から来る欲求を無視して、強引に何かを押し付けたり取り上げたりし続けた結果、「心」=「身体」が暴動を起こしてしまった状態。


それはマズローのいう、適切な時に適切な欲求が叶えられなかったことで生じた「神経症的な欲求」と同じです。


泉谷さんはこの状態に対し、「「あるべき自己」に向けて鍛錬するのではなく、「あるがままの自分」を承認するようになれることが治療上重要」とされています。


マズロー説と考え合わせると、大事なのは「自然な欲求を自然な形で満たす」ということのようです。



でも仏教では、修行というかたちで欲望をコントロールしようとしているのでは?
ここは、仏教が間違っていたということ?


いえいえ、仏教の教えの基本的なものに、「中道」というのがあります。
厳しすぎる修行も、その逆に放逸に過ごすことも、どちらも真理に至る道ではない、という教えです。


そもそもお釈迦様が悟りを開いたのは、厳しく身体を痛めつける修行の末に、苦行だけでは悟ることはできないと知り、川のほとりで休んでいた時に、スジャータという娘が捧げた乳粥を飲んだあとのこととされています。


お釈迦様はもともと王族の出で、修行に入る前は物質的には何不自由なく過ごし、快楽にふける暮らしをしていたこともありました。
王宮での快楽主義的な生活は、おそらく「神経症的な欲求」の産物で、その反動のようにのめり込んだ禁欲的な修行も、自然な欲求とは程遠いものだったでしょう。


そして悟りに至るきっかけが、厳しい修行に飢え乾いていた身体に与えられた、素朴な一杯の飲み物であったというのは、非常に考えさせられるポイントです。


マズローの「自己超越の欲求」と仏教の「大欲」

マズロー説では、「自然な欲求」を適切に満たしていけば、やがて「自己実現の欲求」そして「自己超越の欲求」に至るとなっています。


そして自己超越を果たした人の体験するものとして「至高体験」というものについて述べているそうです。

マズローは、至高体験を次のように表現しています。「神秘的体験、大いなる畏怖の瞬間、とても強烈な幸福感、歓喜、恍惚、至福すら感じる瞬間」であり、「このような瞬間は純粋であり、積極的な幸福感に満ちている。あらゆる疑惑、恐怖、禁忌、緊張、弱さが追い払われる。今や自己意識は失われる。世界との分離感や距離感は消滅し、同時に彼らは世界と一体であると感じ、世界に融合し、まさに世界に属し、世界の外側にあるのではなく、世界の内側に見入るのだ」と。

マズローの欲求段階説|ささきさんのぶろぐ


これはほとんど仏教でいう「一如」(すべてのものはつながっていて一つである)を実感する体験に近いのではないかと思います。


その他、自己実現・自己超越の表現には、利他性を持つ、とか二元性を超越するといった、仏教の悟りを想像させるキーワードがたくさん見られます。


おそらく登り方は違っても、山の頂上は同じ、ということなのかもしれません。


一方で仏教にも、欲を否定するだけではない教えがあります。

欲望というのも生きていることの一つの証であるわけですから、欲を矯めるーーー「角を矯めて牛を殺す」ーーーようなことはするなということです。「もっと大きなものに育てていこう」と説くので、まず「大欲」という言葉が出てきます。私たちのあるべき姿というのは、欲望を大きく育てることです。大きな欲というのは、自分を残していません。自分のための欲ではない、一切衆生のための欲望なのです。

(松永有慶「理趣経」より)


密教は私にはまだよくわからないのですが、欲を捨てるのではなく育てて、やがては一切衆生のための「大欲」にするという考え方は、マズローの欲求段階説と非常に通い合うものがあると思います。


といっても、マズローのいう「神経症的な欲求」をいくら育てても、一切衆生のための欲望にはならないと思われますので、おそらくここでいう「欲」は、「自然な欲求」のほうなんでしょうね。



生きている限り、私たちは欲を持つ。
それは自然なことなので、否定されるべきものではない(否定してもしょうがない)というのが、マズローの説であり、密教の教えなのだと思います。


無理をして品行方正になろうとせず、いまの自分の心と身体に素直に、自然な形で欲求を満たしていくことが、結局は自分を成長させる近道なのかもしれません。


ただその欲求が、満たされればきちんと止まるものなのか、いくら満たしても止まらないものなのかには、注意が必要なんでしょうね。

×

非ログインユーザーとして返信する