遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

「心」=「身体」にしたがって自由に生きるということ

この土日、「部屋を掃除する」以外のMustはなかったので、いつもの「何もない週末」と同じく、だらだらと過ごしていました。


土曜の夜もなんだか寝付けず4時頃まで起きていてしまったため、今朝は11時過ぎに目が覚めた後も、12時頃まで布団の中でごろごろしていました。


で、思ったんですよね。
暇だからと無理やり寝てても、あんまり楽しくないなあ。
と。


寝ることが楽しみだったはずなのに…

「世の中に寝るより楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起きて働く」
という狂歌を、このブログでも何度か紹介してきたとおり、私は、
「寝ている時が一番幸せだ」
と、思う人間です。
(正確に言うと、寝付く前のゴロゴロしている時間と、そのあとの夢うつつの時間、目が覚めかけたときの夢うつつの時間と、そのあとのゴロゴロしている時間)


自己紹介の趣味欄に、読書、創作、映画鑑賞等に加えて「寝ること」と書いてしまうくらい、寝ることが大好きです。


でも今日、目覚めた後、布団の中でゴロゴロしている時間は、あまり幸せではなかったんですよね。


早期リタイアしたいと思った理由の一つは、決められた時間に起きて会社に行くことが苦痛だったからなのに。
早期リタイアしてやりたいことの一つは、時間に縛られずに好きなだけ布団でゴロゴロすることだったはずなのに。


リタイア状態のプチ・シミュレーションである休日の今日、寝ることが楽しくないとは、どうしたことか?!



その時、ふと思いました。
今「好きなだけ寝ていたい」と思っているのは、「頭」の考える「~したい」なんじゃないか、と。


「頭」と、「心」=「身体」

ここでいう「頭」というのは、泉谷閑示さんの「「普通がいい」という病」に出てくる、「心」=「身体」と対比されるもののことです。


この本に書かれていることをまとめてみると、


◆「頭」は理性の場、二元論が基本となっている場所、「~すべき」「~してはならない」などの言葉を使い、論理的であり因果関係を考える働きがある。過去への「後悔」、未来への「不安」などを生み出すが「今、ここ」を把握するのは得意ではない。また、何でもコントロールしたがる。


◆「心」=「身体」は感情と感覚と欲求の場、「~したい」「~したくない」「好き」「嫌い」等の言葉を使い、理由はつけずにいきなり判断を出す働きがある。「今、ここ」に対して焦点を当てて即興的に反応する。「喜怒哀楽」を生み出す。
「頭」よりはるかに優れた深い知恵と判断力を持ち、「直観」という形でそれを表す。


という感じです。

動物というものは(類人猿を除いて)、「頭」がなくて「心」=「身体」だけで出来ている図式で理解できます。(中略)

そこに、「頭」という部分が新しく登場してきた。これが、「善悪の智慧の実」を食べ、二元論的理性を獲得した人間なのです。

(中略)別のたとえをすれば、社長である「心」=「身体」が、「頭」という簿記や計算の得意な秘書を雇ったのだけれど、いつの間にかその秘書が、社長を仕切り始めた、そんなイメージです。

(泉谷閑示「「普通がいい」という病」)


他のところで「頭」を「分別心」とも書かれていますが、唯識でいう、世界をばらばらであるとみる心、分別知と同じことを指していると思います。


そして一方、「心」=「身体」は「人間に内蔵された「内なる自然」」であり、「期限付きで「自然」からレンタルされているだけ」のものと書かれています。
唯識でいう、世界をひとつらなりのもの、もともとひとつのものとみる「空」を体現しているものともいえそうです。


「頭」の作りだす「偽の心」の「~したい」

そのなんでもコントロールしたがる「頭」に、「心」=「身体」はある程度は従っていますが、限界を超えると拒否反応を示しだすと書かれています。
それが、「うつ状態」や「摂食障害」などの、様々な心の問題となって現われる、と。


その際に、「頭」は「偽の心」を生み出して、「~すべき」を「~したい」に言い換えたりするのだそうです。
本当は「学校に行くべきなのに、行けない」であるのに、「学校に行きたいのに、行けない」と言ったりする。


なので、「~したい」が本当の「心」の言葉なのか、「偽の心」の言葉なのか、気を付けなければいけない、ということです。



それを踏まえて、
今の「好きなだけ寝ていたい」というのは、どっちなんだろうか?
を見てみたとき、


どうも、「休日だからもっと寝なきゃ損だ」「掃除は面倒くさいからもっと寝ていたほうがいい」とか考えている部分がありそうなのでした。


なんか理由がくっついているし、どうもこれは直観で働く「心」の声ではなさそう。
第一、寝ていてあまり楽しくないというのがその証拠。


なので、起きだして掃除をしたところ…
結果、スッキリ。


「寝たいだけ寝る」のも、その「寝たい」の出所をちゃんと見極めないとあぶないな~、と思ったのでした。


「心」=「身体」にしたがって自由に生きる

早期リタイアをしたら、これまでよりたくさんの自由な時間が手に入ります。


でもその時間を、「頭」という秘書のいう通りに過ごしているのではつまらない。
本来の社長である「心」=「身体」のいうことを聞いて過ごしたい。


具体的には、


直観にしたがうこと。
心の底から楽しい、幸せだ、と感じることをすること。
「~すべき」「~してはならない」にとらわれないこと。
理由のくっついた「~したい」は、疑ってかかること。


でしょうか。


これまでの生涯のほとんどを、世の中の常識に従って生きてきて、直観を使うということをこれまでほぼしてきていないので、直観もかなりさび付いてしまっていそうなのですが…


泉谷先生によると、直観は使えば使うほど精度が上がっていくものらしいので、今からでもどんどん使っていきたいと思っています。


最初のうちは「偽の心」にだまされたり、行動を決めるのに「頭」(理性)が勝ってしまったりすることも多いでしょうが、続けていくうちに、意識的にではなく直観的に、より適切で、より「今、ここ」に相応しい行動が取れるようになっていく。
そして、本当の意味で「自由に生きる」ことが可能になっていくのではないかと思います。



ちなみに、「早期リタイアしたい」という気持ちは、自分の中のものすごく深いところから湧き上がってきた気持ちです。
具体的には、「これ以上、時間を浪費したくない」「生きているうちに、もっと他にやりたいことがある」という感覚です。


頭では、このまま勤め続けながらその「やりたいこと」をやったほうが、より安全であり、より常識的であり、より望ましいのはわかっています。
でももう、そういう理性による判断より、心の衝動のほうが深くて強かったということです。(一応、資金的に大丈夫かという点は理性で判断しましたが)

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