遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

唯識の教えるもの・孤独の正体

今日も引き続き唯識のお話を。


唯識の中には、「なぜ人が孤独な存在なのか」を解き明かす考え方があります。
それは「唯識」の名前のもとでもある、「ただ識のみが存在を作り出す」という考え方です。


唯識の名前の由来

唯識(ゆいしき、skt:विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。


唯識 - Wikipedia


この、「個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、ただ、八種類の識によって成り立っている」という考え方から、唯識という名前がついています。


私自身や、私の見る世界すべては、私の五識(五感)、意識、マナ識、阿頼耶識によって作り出されたものであり、私がそう思っているような「実体」はない、ということです。


脳のある部分を刺激すると、目の前に何もないのに何かの色を見るとか、逆に脳のある部位を損傷してしまうと、味を感じられなくなってしまう等の話を聞いたことがあります。
人間の知覚は結局のところ、脳への刺激であって、適切に刺激すれば、現実には存在しないものを、あたかも存在するかのようにリアルに感じさせることもできるのでしょう。(そういうSF映画、ありますね)


そういった科学的事実・推察からも、私たちの見ている世界、感じている世界は結局、私たちの心の働きが作り出したものである、という考え方は、割と受け入れやすいものではないかと思います。


心のフィルターなしには、物事を見ることができない

「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」
という言葉があります。
怖い怖いと思っていると、風に揺れる枯れ尾花が幽霊の手招きに見えたりするというアレです。


これはわかりやすいのですが、もうちょっとわかりにくいところでも、私たちは常に心のフィルターをかけて世界を見ています。


例えば親から叱られてばかりいた子供は、「自分はいつも悪いことをして怒られる存在なのだ」というフィルターを持ちます。
そのフィルターを通して、例えば友達を見たとき、友達がたまたま不機嫌そうにしていた。するとたちまち、「私が何か悪いことをして怒らせた」と震え上がったりする。
でも実は、たまたま前の日に、その友達が応援している野球のチームが負けたというだけのことだった、なんていうのはよくある話です。


赤ちゃんから子供になる時点で、すでに私たちはフィルターを装着しています。
(それどころか、唯識の教えによれば生まれる前から、その種を心の中にたくさん抱え込んでいるそうです)
そして子供から大人になり、老人になるまで、そのフィルターを通していろんなものを見聞きして生きていきます。見聞きしたものは、フィルターの色を濃くするかもしれないし、別の色に変えたりもするかもしれない。
いずれにせよ、常に何らかの形でそれを通した状態で、私たちは世界を見ている。


フィルターは、色眼鏡、先入観、思考の習慣、思想などとも呼べるかもしれません。


恋人同士でも親友同士でも、たまに「あなたがそんな人だとは思わなかった!がっかりだ」ということがありますが、それも当たり前です。
もともとフィルターを通してしか、相手の姿を見ていないので、本当の意味で相手を知ることができていないのです。


心のフィルターに隔てられた、一人ひとりの世界

つまり、私たちは一人一人が、「自分の心の働き」が作り出すフィルターの中に閉じこもった・閉じ込められている状態であると言えます。
別々の濁ったシャボン玉の中でふわふわと浮かんで、別々の夢をみているようなもの。


そういう意味で、私たちはとてもとても孤独な存在です。


どれだけ人と親しくなっても、どれだけ愛しても憎んでも、それは全部、自分が作り出した幻影相手に、一人遊びをしているのと同じだからです。


本当の相手には、どれだけ手を伸ばしても、届かない。
どんなに解りあいたいと思っても、本当の意味では、解りあえない。


そのフィルターは、「私」を「私」たらしめているものであり、
同時に、「私」を永遠の孤独に閉じ込めるもの。


「誰もが持っている心の壁」、
そう、それはいわゆるひとつのATフィールド。



いやでもほんと、そのイメージに近いです。


「私」が「私」であろうとする限り、決して消すことができず、無理やり消し去ろうとすれば、自我が崩壊してしまう。


誰か(親の場合が多いでしょうね)の望む自分になるために、自我を抑え込んで、そのために精神的な歪みを抱え込んでしまう事例は、よくあると思います。
けれどそうやって自分を歪めることまでしても、決して、誰かの望む通りにはなれない。


だって、その「誰かの望む姿」さえ、自分のフィルターを通して見たものでしかない…つまり相手の本当の望みを知ることは、永遠にできないのですから。



家族、親友、恋人であっても、それぞればらばらの世界を見ていることに変わりはありません。
一人でいればもちろん寂しいけれど、二人でいても、たくさんの人といても寂しさが消えないのは、それぞればらばらの世界に住んでいることを、心の底ではわかっているから。


これが、私たちの根本的な孤独の正体。


解放される道・シャボン玉の外があると知る

ではどうすれば、その孤独から解放されるのでしょうか。


唯識では、「私」や「世界」をばらばらのものと見る、その見方自体を変えなさい、と教えます。


このあたりのことはひとつ前の記事に書きましたが、まわりから独立した別個の存在としての「私」があるのではなく、「生きていないもの」から切り離された「生きているもの」があるのでもない。
すべてはひとつらなりであり、ひとつであるということを知るということ。


「私」も「あなた」も、山も河も海も空も、みんなみんな、根っこのところで同じであるということ。
色や形や大きさ、生きている、生きていない、ということは違っても、それは大いなる宇宙の変転におけるそれぞれの相で、いっときその姿をとっているに過ぎない、ということ。


それを頭で理解するだけでなく、体感するということ。


そうして「私」にこだわる必要も、「生きること」にこだわる必要もなくなったとき、「いわゆるひとつのATフィールド」のようなものの濁り、ゆがみは消えて、ありのままの世界の姿を見ることができると言います。


一人一人の入ったシャボン玉がきれいに透き通り、周りが見えるようになる、というイメージでしょうか。(シャボン玉そのものは、死ぬ時まで割れないでしょうね)


さだまさしさんの「防人の詩」に、有名な歌詞があります。

海は死にますか 山は死にますか

風はどうですか 空もそうですか

おしえてください

宇宙規模の時間で考えるとき、海も山も風も空も、私たちと同じように、生まれては消える儚い存在です。
(海や山は地殻変動で消えたり生まれたりしますし、風と空は、それを保つ惑星が消えるときが、死ぬときと言えるのかな)


この歌を聴くとき、哀しさだけではなく、不思議な安らぎを感じるのは私だけでしょうか。

去る人がいれば 来る人もあって

欠けてゆく月も やがて満ちてくる

なりわいの中で

宇宙は常に変化していて、生きっぱなしのものもなければ、死にっぱなしのものもない。
命あるものと、命のないものは、つながりあってくるくるとめぐり、宇宙を豊かな世界にしている。


「私」もその中の一員であり一部であるのだ、と知るとき、
「私」と「私の命」にこだわってしがみついていたが故の孤独は、
どこかに消え去っていく。


そういうことなのかなあ、と思います。



ところで、雄大な自然を見ると癒されますよね。
白い雪を頂く山々に囲まれた、碧く透き通った湖とか、
広く見渡せる海に沈んでゆく夕日、それにつれて色を変えてゆく空と雲の姿とか、
高く低くうねりながらどこまでも続く砂漠の黄色い砂と、青い空のコントラストとか、
本当に自然ってすごいなあ、と思うのです。


ひるがえって私の命が尽きるときも、
そのあと分子やら原子やらクォーク(・・?やらになって、いつかは、
そういう山や湖や海や空の一部になれるかもしれないと思うと、
死ぬのもそんなに悪くないかもなあ、とか、思ったりもするのです。

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