遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

自由意思による選択なんて、あったのだろうか。(資本主義と教育、その他)

今日も今日とてへろんへろんです。
でもふと、気づいてしまったことがあるので、書きます。


私は今まで自由意思で自分の人生を選んできたと思っていたけれど、
本当は、そんなものはなかったんじゃないか。


というお話。


「資本主義の仕組み」で検索すると、過激なサイトが結構出てきます

はじまりは、資本主義ってなんだっけ、というのをネットで調べていたこと。
AIの進歩発展がどのように今の社会に影響を及ぼすか、について考えていて、ふとわからなくなってしまったのです。


AIとロボットが、安い原価で、大量のモノを創り出すことができるようになる。
資本家は、安い投資でたくさんの「売り物」を手に入れる。
でも、いざそれを売ろうとしたときに、「買い手」はどこにいるのか?
消費者=労働者は、「買い手」になれない。AIとロボットに職を奪われて貧しくなり、たくさんの「売り物」を買うことができない。


…あれ、これじゃ経済まわらないんじゃないの?
そもそも資本主義の仕組みって、お金が回る仕組みって、どうなってたっけ…



そこでグーグル先生に聞いてみることにしました。検索欄に「資本主義の仕組み」を検索して、ボタンをぽちっと。


そして出会ったのがこちらのサイト。


そして、この資本主義社会を発展させて国が栄えるためには歯車となって従順に労働する大衆を人為的に作り出す必要がありました。


産業革命以降から、現代の集団授業・学校教育と呼ばれるものが本格的に開始されたわけですが、それは被支配者(奴隷)となる人々を作り出すための制度だったのです。


おっ、なかなか過激だな、というのが第一印象でした。


(このキーワードで検索すると、他にも結構、過激なサイトが出てきます。ちなみに、お金が回る仕組みについてはほかのサイトに詳しく書いてあったのですが、「投資家が投資をし続けることがお金を回すカギである」ということが判明したくらいで、やっぱりイマイチよくわかりませんでした)


こちらのサイトの論調は、今の義務教育は資本主義を上手く回らせるためにある、というもの。
「被支配者(奴隷)となる人々を創り出すための制度」とか、なかなか過激です。


ちょっと言いすぎかな、とは思います。
ただ、今の学校教育っていうのは、確かに、おかしいなところがたくさんあるんですよね。


個人の個性を尊重せず、誰でも平均的な学力・能力を持つように育てている。
喧嘩をせず、先生に逆らわず、決められたことに従順であることが良いこととされる。
まるで人を、ある一定の「型」に合うように育てているように見える。


ぶっちゃけ、人間なんてそれぞれいろんなところが出っ張ったりへこんだりしているのが当たり前で、もともと一定の型になんか収まるわけがないのです。


それを、むりやり型に押し込める…その結果、不登校、非行、いじめ、学級崩壊…さまざまな問題が起こってくる。
もし学生時代を型に押し込められながらなんとかやり過ごしたとしても、社会人になってから、うつ病やら何やらのメンタル不調が出て来たりする。


そんな風にも、解釈できます。


ちなみに上で紹介したサイト、ちょっと過激ではありますが、義務教育の問題点と、そこから解放されるための提言などが書かれていて、いままさに学校教育になじむことができなくて苦しんでいる人には、非常に参考になるサイトなのではないかと思います。


学校はもっとちゃんとお金のことを教えるべき、というのには心から同意です。


教育現場で起きていること -先生の立場から見て-

ここに一冊の薄い本があります。安積力也さんという教育者の書かれた、「教育の力」という本です。

教育の力―『教育基本法』改定下で、なおも貫きうるもの (岩波ブックレット)
教育の力―『教育基本法』改定下で、なおも貫きうるもの (岩波ブックレット)
岩波書店

本屋で何となしに手に取って、パラパラと読んで、気に入って買ってきたものなのですが、とても深いことが書かれています。
この中に、こういう文章がありました。

いま、いわゆる「教育改革」と称して、猛烈なスピードで教育行政上の改革が断行されているわけですが、それが依拠している基本原理は、教育本来の原理ではありません。

一つは、経済の領域においてもっとも有効に働くべき経済上の原理なのです。いわゆる市場原理。アダム・スミスによって見出されていった自由市場のメカニズム。(中略)

自由競争は、結果として一種の淘汰主義を生みます。つまり不用なもの、不適なものを排除していきます。それは教育の世界では、体のいい選別を生みます。(中略)

効率性追求、これは確実に成果主義に繋がります。とにかくよい「結果」を早く出す。

(中略)そのために、実は本当はプロセスの中にこそ豊かな人間の成長の要素があるはずの教育の営みが、どんどん疎かにされ、子どもたちは、とにかく早く結果を出さなければならないと、追い立てられています。

少し言っていることは違うかもしれませんが、市場原理が教育の場に入り込んでいる、という点では共通の認識がありそうです。


この本にはほかに、こんなことが書かれています(というか、こちらのほうがメイン、わたしが「すごいなあ」と思った部分です)
・発達には厳然たる「順序性」がある、ということ。
・その順序性をおろそかにして成果だけを求めて先走っても、本当の成長にはつながらないこと。
・けれどもその順序性さえ守れば、どんな子供でもその子供が本来的に持つ力を発揮して、驚くべき成長の道を歩んでいく、ということ。
・そしてだから、大人たち、教育する側には、その時が来ることを信じて「待つ力」が必要なのだということ。


このかたの基本的な教育に対する姿勢は、次の言葉に表れていると思います。

われわれに求められていることは、(中略)

生徒の心のなかまで画一化しようとする教育が強化され、すべてを効率性と単一価値の下に括ろうとする巨大な潮流の只中にあって、なおも「ひとり」という人間のもつ多様性と尊厳を、他のいかなるものよりも大切にする教育を貫くこと、なのだと思います。

このような、個性と人間性と、子供が自ら育つ力を重んじる教育から、今の学校教育は、いかに遠ざかってしまっていることか。


この本の元になった講演は2007年になされたものなので、私の学生時代よりはるか先のことではあるのですが、わたしの学生時代からすでに、「待たない教育」「個を尊重しない教育」は、始まっていたように思います。


「時代に翻弄される人生」というのは、資料館の中だけのできごとではない

もう一つ、思い出したものがあります。
かなり前に沖縄旅行をしたときに、「ひめゆりの塔」の資料館で見た、隊員の言葉です。


戦時体制下で、ひめゆり学徒隊がどのようにして生まれ、彼女たちに何が起こったか、ということが様々な資料で展示されていました。
その中の隊員の手記だったかに、こう書かれていたと記憶しています。


私たちにも、普通の青春があった、と。


この言葉は、何故かはわからないながらも、とにかく、私の心に深く刺さりました。
そこには、ただ「かわいそうに。ひどい時代だったんだね」と同情して終わらせることのできない、何かがありました。


普通の青春。
普通に、友達とおしゃべりして、笑い転げて、先生に叱られたり、親に反抗したり、悩んで、恋をして、傷つけあって、慰めあって。
わたしたちに、そういう日々があったように、彼女たちにも、そんな普通の日常があった。


そう、彼女たちは「特別な時代」の「特別な子供たち」ではなかった。
わたしたちと同じ、普通の子供たちだった。


彼女たちの人生が時代に翻弄されたというなら、私たちの人生がそうでないと誰が言い切れるんでしょうか?


それは例えば、何十年、何百年か後の、歴史の教科書に、こんなふうに書かれるかもしれない。
資本主義経済を支えた労働者階級は、いかにして作られたか」とかいう、コラムか何かで。

彼らは義務教育を通じて、我慢強く、辛抱強く、おとなしく、反抗もしなければ自分の身分に疑問を持つこともない、すなわち「搾取されるのに最適な労働者」になるように育てられた。


彼らを労働者から資本家へと抜けださせるかも知れない「投資」行動は、そのリスクが強調され、ギャンブルまがいの、「まともな人間なら手を出さない」ものとして忌避するよう印象付けられた。


お金に対して熱心な興味を示すことは「意地汚いこと」「みっともないこと」として否定された。


いい学校を出て、いい会社に勤め、真面目にコツコツと働いて給料をもらうこと、つまり労働者として一生を過ごすことが、何より良いことだという「常識」が、教育によって与えられた。

あんまり違和感、ないと思いません?


自由意思なんてもともとないのかもしれないけれど、常識を疑うことくらいはできる

要するに、今の人生、自分の意志で選んできたはずの「良い学校&良い会社に入り、善良な社会人としてまっとうに生きる」こと、これが実は「そのように誘導されていたに過ぎなかった」かもしれない、というお話なのです。


まあ、時代の影響を受けずに生きることはできないので、ある意味、必然ではあるのですが。
そもそも自由意思なんてもともとない、と考えることもできそうですし…。


でも、ともかく。
「当たり前」と思っていたことが、最近ますます疑わしくなってきているのは、確かです。


「一生働き続けることが当然」
「苦しくても働き続けるのは当たり前で、そうするのが良いことで、そうしないのは悪いこと」

「会社に勤めてお給料をもらう生活が一番安全で、一番楽で、お得な人生」
これが普通で、常識。


でも、本当に?
100年前、100年後、200年前、200年後にも、それは普通で、常識?
とてもそうは思えない。


「普通であるべき」「良い常識人であるべき」という考えが、わたしたちの人生から自由を奪うなら、そんなもの一度、かなぐりすててしまってもいいのではないでしょうか。


既得権益の砦。
安全に飼いならされた羊の群れ。
そんな中からは、進歩、発展、新しいこと、わくわくするようなことは生まれてこない。


そのことだけは、忘れないようにしたいと思います。

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