遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

「お前いつまで生きているつもりだ」藤子・ F・不二雄さん「定年退食」の世界

今日は暑かったですね~!


こんな中、私はなぜか昨夜というか今朝3時まで眠れず、さらに5時に目を覚ますというナポレオンも真っ青の短時間睡眠をやらかしてしまいました。

そして間の悪いことに、最近新調したPCのために、とある備品が今日中にどうしても必要でした。

それを求めて、この暑い中を小一時間さまよう愚行をおかすことになったのです。


もともとの体調不良 + 寝不足 + 暑さ + 小一時間の彷徨 =ダメージ9999


もう、HP、MPともに0スレスレ。

備品は無事見つかって、帰ってから昼寝しまくりましたけどね。

疲れた一日でした。


さて、今日は、読むと気分が悪くなる人がいるかもしれない事柄を書きます。

タイトルの、麻生さんの発言について、なんてことをいうんだこのばかものが、と思った方は、読まないほうがいいです。

あと、「死」について少し書くので、軽々しくそういうことを書くな、と思う方も、読まないほうがいいです。


ここから先を読む方は、以上のことを踏まえて、お読みくださいませ。

それでも気分が悪くなったら、ごめんなさいね。先に、謝っておきます。


それでは貴方は、いつまで生きるつもり?

口の悪さで定評のある麻生財務大臣が、またやってくれたようです。

麻生太郎財務相(75)は17日、北海道小樽市で開かれた自民党支部大会で講演し、「90になって老後が心配とか、訳の分からないことを言っている人がテレビに出ていたけど、『お前いつまで生きているつもりだ』と思いながら見ていました」と述べた。高齢者らの反発も予想される。


言いたいことはわかるし、口が悪いだけで悪気はないというか、よくこんなこと素直に口に出せるなと、一種感動も覚えるくらいです。

きみまろさんの芸風と思えば、腹立ちも笑いに変わるかもしれません。

あなただって相当いい年ですよね、あなたはいつまで生きるつもりですか。という突っ込みどころを残しているのも、愛嬌があります。


しかしまあ…


みぞうゆう…いやいや未曾有の高齢化社会に突入しようとする今、

そしてそれを支えるための社会保障費用の重荷が、現役世代に重くおもくのしかかる今、

麻生さんの感想は決して特別なものではない、と思います。


結局、90にもなって老後が心配と貯めこんでいないで、お金を使ってほしいという意図なのですよね。

けれど、この言葉の裏にある「90ならもう老後を心配するな」=「もういつお迎えが来てもいいでしょ」というニュアンス。

90ならもういいでしょ、と思うか、90ならまだまだ長生きしたときの備えが必要、と思うか。

人それぞれかもしれないのですが、私は、いくつになっても「もういい」とはならないんじゃないかと思います。

麻生さん自身、75歳で「もういい」とは思ってないでしょうしね。


人間も生物なので、誰だって生きられる限り生きたいです。

他人についてだって、生きられる限り生きてほしいと、何の怨恨も持たない相手なら普通は思います。


でも、じゃあ、医療と科学の発展が寿命をどんどん伸ばしていったら、

果たしていつまで、周りは、地球は、それを支え続けることができるのでしょうか?


そこでタイトルの短編漫画です。

藤子先生の「定年退食」。食糧事情の悪化した未来社会での、「定年」についての怖いお話です。


読んだことがない方はぜひご一読を。

手っ取り早くあらすじを知りたい方はこちらから。


しゃれになりません。

まったくもって、しゃれになりません。


漫画の中では、食糧事情の悪化。現実世界では、社会保障費の増大。

原因は異なるにせよ、人の「老後」を社会でどう支えていくか、支えていけるのか、が大きな問題となっていることは同じです。


まだ、ここまでは、現実の事態はひどくなっていません。

けれどこれは、物事が最悪の形で進行した場合の、一つの「現実の」未来だと思うべきではないでしょうか。

私たちの時代はこんな形で、昔のSF漫画に描かれたことを実現することになるのかも…。


最悪の未来を想定し、それを避けるためにどうすればいいかを考えるために、
絵空事だと笑い飛ばして済ませるわけにはいかない事柄のような気がします。


「今日から、定年が○○才(今の自分の年齢より下)になります。」と言われたら?


あ、この定年は上記の「定年退食」に出てきた定年です。

政府からの年金、食糧など、一切の補助を打ち切られる年齢ということです。

「もうあなたはこの社会に要りません。(むしろ重荷ですので、いなくなってください)」

という意味の定年、です。


ひどいこと、ですよね。


自分が、家族が、こんなことを言われたら…



でも、そういうことを、受け入れる覚悟って必要なのかもしれません。

この覚悟というのは、支える側がもう限界なのだということを、知って、認めて、思いやる、ということです。


前に生活保護についての記事でも書きましたが、

理想は理想、現実は現実、支える側が持たなくなって倒れたら、もちろん支えられる側は共倒れです。

共倒れになるよりは、まだしも支える側だけでもなんとかなってほしい、

そういう気持ちって必要だと思います。


いま受けているサービスは当たり前のものじゃなくて、誰かが頑張って支えているものだということ、その支える側の現実を、あきらかにみるということです。


そういう覚悟が、

今の老人のひとたちにも、

これから老人になる私たちにも、

必要なんじゃないでしょうか。



その覚悟、諦念があれば、「人生からの定年」という事柄も、悲惨で忌避すべきむごたらしいものではなくて、もう少し違うもの…


うまく言えないのですが、「来るべき時が来て、残るものは残り、去るものは去ってゆく」というようなものになりうるのではないかと思います。


「クジラの墓場」


昔、「クジラの墓場」の話を聞いたことがあります。

死期を悟ったくじらは群れから離れて、決められた場所に向かい、古くからご先祖たちが眠るその場所で死ぬのだとか。


深い海の底で、青い光に照らされながら、ご先祖たちの骨に囲まれて静かに死んでゆく、くじら。

そういう一生の終え方って、なんだかいいな、と思ったりしたものです。


都市伝説の類と言われていますが、なんというか、ある種の郷愁を誘う光景だと思います。



死ぬっていうことは誰も避けられないことですよね。

(SF的に言えば、電子情報としての自我の永遠性は、これから先もっと科学技術が進めば夢物語ではなくなるでしょうけど)


まわりに散らばるご先祖たちの骨は、

それが特別なことではなくて、自然なことだと教えてくれている。

そんな中でなら、

「ああ、他の人もみんなたどっていった道だ」と思えば、

死の恐怖もやわらいで受け入れやすくなる。



「クジラの墓場」には、そんなイメージがあります。




当たり前に来るものであればこそ、「どんなふうに死ぬか」は結構大事なこと。



私自身は、都市伝説かもしれないけれど、「クジラの墓場」みたいなところで、静かに眠るように死ねたらなあと思ったりもするのです。







PS.

もちろん、「この社会に要らないからいなくなって」といわれることが、そのまま消える(死ぬ)ことにつながらなくてはいけないわけではないと思います。

定年を迎えたひとたちだけの社会をどこかに新しく作るのもありですよね。

限界はあるでしょうけど、ある種の矜持は保たれるような、そんなやり方はあると思います。

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