遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざそうとするブログです。

唯識の教えるもの・本当に幸せになるためには

三連休、みなさんはどう過ごされたでしょうか。
私は欲張りすぎてすべての日に予定を入れ、見事に疲れ果てて今日は倒れ伏していました。
欲張りはダメですね、やっぱり。


さて。
今日は、先日の「唯識のすすめ」の記事に引き続き、唯識について書きたいと思います。


なぜ唯識に焦点を当てるのか。

それは、人が幸せになるために必要な要素がそこにあるのではないかと思うからです。


人間は物質的な豊かさはかなり手に入れてきました。
健康な体も長い寿命も手に入るようになってきました。
(世界的にはまだまだ、そうした豊かさが届いていない国も多いですけれど)


でも、人の悩み苦しみは、あまり減ったように思えないのです。
些細なことで人同士で争って傷つけあったり、家族同士でさえ分かり合えずに悩んだり泣いたり、人間関係がわずらわしいと言って自分から人間関係を断って行った結果、孤独に苦しんだり。


そういう部分では、遠い昔から現在に至るまで、人間の心の苦しみというのは、あまり解決されてきた気がしません。
精神医学が発達して、心理的な問題も、ある程度、薬やさまざまな療法によって改善することはできるようになってきましたが、対症療法にすぎません。
苦しみの根っこには全然、手が付けられていないように思うのです。


有無同然・あってもなくても思い悩むことに変わりはない

仏教では、「有無同然」と言います。


「田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、

 宅なければ、また憂いて、宅あらんことを欲す。

 田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。(中略)

 有無 同じく然り」


“田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、

 有れば、管理や維持のために また苦しむ。

 その他のものにしても、みな、同じである”

欲しいものがないのも苦しいけれど、手に入るとそれを持ち続けることも苦しみにつながる。


ちょっと実感がわきにくいかもしれませんが、例えばお金。


持っているお金が少ないので、今月は食費を少し切り詰めないといけない。
趣味のものを買うのにも、欲しい車や家を買うのにも、もっとお金を節約して貯めなきゃいけない。苦しい生活を続けなければいけない。
ああ、一億円持っていたら、こんなに苦しまずに済むのにな。
と思っている人がいる。


一方で、宝くじで一億円当たった人。
当たった時は大喜びで幸せになっていたけれど、だんだん、「このお金を狙って強盗が襲ってくるんじゃないか」と悩んで眠れなくなる。親しかった友人がお金を無心してきてトラブルになり別れることになる。
ああ、こんなことなら一億円なんて当たらなければよかった。
と思っている人もいる。(かもしれない)


私自身、早期リタイアのためにお金を貯めてきて、実感することがあります。
少ない時は、もっと貯めなきゃ、と思い悩み、それなりに貯まってきても、インフレを恐れ、経済恐慌を恐れ、つまり失うことを恐れて思い悩む。
あってもなくても、思い悩むことに変わりはありませんでした。


寿命にしてもそうです。
長く生きることによって、今度は老後破産、下流老人という問題が出てきた。長く生きればいいというものではない。もちろん、短く生きたほうが良いということでもない。


人はそういった「豊かさ」だけでは幸せにはなれない、それは科学医学技術や経済が発展する前の昔から、発展した後の現在まで、一向に変わらない事実かと思います。


モノや身体について豊かになっても幸せにはなれない。
ではどうすればいいのか。


四苦八苦・人間が幸せになれない理由「思い通りにならないこと」


考えられるものの一つは、「愛情」です。


人間関係を豊かにすることによって、幸せになれるのではないか。
でも、これもまた答えではありません。


四苦八苦という言葉がありますが、これも元は仏教の教え。本当の意味は次の通りです。


四苦八苦 - Wikipedia

四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する。

根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、

愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること

怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと

求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと

五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。

老いること、病気になること、死ぬこと、求めるものを得られないこと、心身が自分の思う通りにはならないこと、これだけの「思うようにならない」ものがある。
生きること自体がそもそも、思う通りにはなりません。


そしてこの中に、愛別離苦、怨憎会苦という、人間関係に関する苦が書かれています。
愛するものと分かれる苦、憎い相手と会わねばならない苦。
どちらも人間関係が引き起こすものです。


愛情が深ければ深いほど、失った時の悲しみも深くなります。
「愛などいらぬ!」と叫ぶサウザーの言葉が胸をうつのは、その悲しみが全人類共通のものだからでしょう。


また、愛情を注ぐ相手をたくさん持つということは、その裏返しに同じくらいの人数の、「あまり気に食わない相手」を持つということでもあるのではないでしょうか。
そういった「嫌な相手」と会わざるを得ない辛さ。
これもまた大変深いもので、数々の悲しい事件なども引き起こすもとになります。


モノや身体の豊かさや、愛情を持つこと、これらのことでは、人は幸せになるということができない。


たとえ一時、そういう豊かさや愛情で幸せになったとしても、それは失われる幸せです。失った後に、幸せだった分の苦しみに襲われる、そういう幸せです。


では、どうすればいいのか。


唯識の教え・苦しみの根本を発見すること

先の記事に書いた通り、唯識では、人の苦しみ悩みの根本原因は、マナ識、阿頼耶識という二つの無意識下の意識にあるとしています。


そこにある、物事の根本的なとらえ方が間違っているので、それが苦しみを産み、人が幸せになることを阻害しているというのです。


その間違いとは、
「ひとつらなりのつながりである世界を、ばらばらのものととらえる」
ことです。


例えば桜の花は、それ一つで存在しているものではない。
花のついている枝があり、枝についていて、花の咲くエネルギーを作り出している葉っぱがあり、その枝のついている幹があり、幹を支えて地面からエネルギーを吸収している根っこがある。


ことばとしては「花」「枝」「葉っぱ」と分かれてしまいますが、じゃあ花が花だけでぽつんと虚空に存在するかと言えば、そんな馬鹿なことは全くないわけです。
花は花だけれど、それ一つで別個の独立した存在であるわけではない。


人もそうで、父親がいて母親がいて、それぞれの父母がいて、そのまた父母、延々と続くご先祖の末端に私たちが存在します。
父と母が出会わなければ私たちはいなかったし、赤子だった私たちの面倒を見て育ててくれる人がいなければこうして今、生きていることはできない。


そしていま生きているのも、空気がなければ生きられないし、水も食料も必要。
コンビニで水も食料も買えるけれど、水をペットボトルに入れる人、お弁当を作る人、それらをコンビニに届けてくれる人、コンビニを開店して売ってくれる人、がいなければ手に入らない。


そもそも水が川や泉や池や地下水として存在してくれなければ手に入れられないし、空気の組成がいまと違っていたら私たちは窒息死する。そのいろいろを与えてくれている地球という環境がなければ私たちは存在しえない。
そして地球に水や大気があるのは太陽の熱エネルギーのおかげであったり地球の自転エネルギーであったり………云々。
難しいことはわかりませんごめんなさい。


でも、私たちという存在がどれだけのものに支えられているか、どれだけのものとつながっているかは、ちょっと考えてみたら簡単にわかることです。
「私たちは、切り離された別々の存在として存在することは、できない」というのは確かなことです。


それを別々のものとして切り離して見ているから、経済のためになるからと言って川や海や空気に悪影響を与えるようなこともしてしまう。
「ゲーテッドシティ」などといって、富裕層だけの街を作り、自分たちが得ている富を作り出している一部である、貧困層の人々を切り捨てて顧みない。
これって、とても恐ろしいことです。


唯識の教え・間違った見方をやめて正しく世界を見る

唯識のおしえる本当の世界の姿は、「ひとつらなりのつながり」でありもともとは一つである世界です。


そもそも、私と、魚と、何が違うかと言えば、根本的には同じ物質でできています。同じ分子、原子、クォークとかそんなものからできています。
現れ方が違うだけで、その違いは、せいぜい遺伝子情報の違いくらいです。


私と、隣の国の人と、何が違うかと言えば生まれた場所と受けた教育と思想と、文化伝統が違うくらいです。もともと、同じ人間です。


私も魚も隣の国の人も、ちょっとした「縁」が違えば(遺伝子や生まれた場所やなんやかんや)、そっくり入れ替わっていても不思議ではないのです。


つまり魚や隣の国の人は、私に「別の縁」があったときに現れた、別の「わたし」であるということです。


重要なのは、縁が別ではあっても、同じ「わたし」であるということ。
そして、同じように、この宇宙のおかげで生を受け、同じ宇宙の中に生かされている、同じ宇宙、同じ世界の一部である、ということです。


川面を流れる泡の形や、その軌跡が違っても、同じ川の一部であるようなもの。
海に現れる波の形や、波が生まれてから崩れるまでの時間が違っても、同じ海の一部であるようなもの。


このような見方が本当に身に染みて実感できたとき、先ほどの四苦八苦は、苦しみではなくなる、と言います。


老いは、波が長い間、波の姿であったけれども、岸について、崩れてゆく様。海に還るだけのことです。
気に食わない人とのぶつかり合いは、同じ川面に浮かぶ泡と泡がちょっとぶつかった、そのぶつかる具合が悪いだけのこと。
もとは同じ海であり、川であると思えば、そうかそうか、と気にならなくなる。

このように生きるとき、死もまた苦しみではありません。
波がくだけて、海に還る。
それだけのことだからです。


本当の世界の姿を見ることができるようになれば、こうやって、苦から解き放たれて自由になることができる。そういうことを唯識は教えているのだと思います。


ただ、唯識の教えはそこにとどまりません。さらに先があります。


唯識の教え・「無住処涅槃」とらわれないということ

世界はひとつらなりであり、様々な事象はそれが様々な縁により、違う姿をとって現われただけである。


「そうはいっても。」という思いがあると思います。
「憎しみとかはいらないけど、大切な人を大切に思う気持ちまで、幻想のように扱ってしまうのはどうなのかしら?」


そうですよね。人間ですから。人間らしい心の動きまで否定することが幸せにつながるわけでは、ないと思います。


大乗の菩薩の究極の目標が「無住処涅槃」とされています。
すみかをさだめない、ということです。

つまり菩薩には、生も死もない意識状態と、私の生があり私の死があるという意識状態を、どちらかに行きっぱなしではなく、いつでも自由に行ったり来たりできる、そういう心のあり方が可能だというのです。

唯識のすすめ―仏教の深層心理学入門 (NHKライブラリー) | 岡野 守也 | 本 | Amazon.co.jp


悟りきった世界にも、人と人を区別して生きる世界にも、どちらにもとらわれない。


そうすることによって、
他人を他人として、一人の個性を持った人間として尊重し、愛することもできる。
また、同じ宇宙、同じ世界の違った表れの一つ一つである、という一体感も、持ち続けることができる。

私たちは二隻の舟 ひとつずつの そしてひとつの

(中島みゆき「二隻の舟」)


そうやって人間として豊かな心の動きを体験しつつ、
全体としてひとつである(自分がその一部である)世界そのものを愛しつつ、
今を生きることを大切にすることができる。

それが人の、本来の幸福のすがたではないかと思います。


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