カルト宗教にはまったお話と、そこから得たものについて
私は過去に2度ほど詐欺にあったというお話をしました。
カモられたお話その1。
2度目のそれは、いわゆるカルト宗教にはまったというものです。
これは前回の記事の詐欺とはちょっと違うのかも知れません。相手に「騙そう」という意図があったか、不明確だからです。
ただ、人の心理的な弱さと結びついて間違った思い込みをさせ、後から後悔するような振る舞いを促す「仕組み」があった、という点は同じかなと。
期間は10年足らずで、強烈にハマったわけではありませんが、若くて血気盛んな頃でしたので、それなりにはやらかしてしまいました。
ざっくり概要を書くとこんな感じ。
どんな宗教だったか:仏教系の新興宗教
失ったもの:お金と、一部友人との信頼関係
得たもの:カルト宗教にはまる人の心理と、宗教、信仰についての理解
少しフェイクをいれながら、それぞれについて書いてみます。
どんな宗教だったか
仏教系の新興宗教でした。
ある一人の指導者に対して、ほぼ絶対服従が原則となる教えでした。
献金や布教活動が、教えを理解し実行し、救われるために必要であるという教えでした。
…って、カルト宗教って、どこもそうか?(; ・`д・´)
仏教を元にしているので、割と論理的で、「信じさえすれば救われる」といった感覚系ではないところが、わたしの気に入ったポイントでした。
内部の雰囲気は割と穏やかで、献金や布教活動をそんなにしないでいても、それほど居心地が悪いというわけでもありませんでした。(そのせいで、それほど熱心ではなかった私も長く居ついてしまったわけですが)
とにかくよく話をすることが大事とされていて、講演会を聞いたあとは、その内容について喧々諤々の議論が繰り広げられていたのを思い出します。
外部への攻撃性はほぼありませんでした。ただ、仏教系の既存団体への攻撃(舌戦ですが)だけは、とても激しかったです。
閉鎖性はあまりなく、その団体以外の教えや書物は「不要」とはされていましたが、学んでも怒られたりはしませんでした。
特に、ハマり度の軽いメンバーに対しては、団体内の言い方でいえば「この団体の正しさをより理解するため」に、良いことだとさえされていました。
失ったものと、その教訓
まずはお金。
総額は覚えていないのですが、献金は最大で50万くらいしたのを覚えています。
あとは地球の裏側まで講演会についていったり、毎月の講演会(全国で行われていました)に行く交通費と宿泊費。これは格安国内旅行に週一で行っていたようなものですね。
まあ、全財産突っ込んだわけでもないし、得られたものに比べれば、なんてことはありません。
得られた教訓としては、どんなにハマっても、生活を脅かすほどの無理をしてはいけない、ということかな。
つぎに、友達との信頼関係。
熱烈な勧誘活動が是とされていたので、私もまずは周りの人からと、もともと少ない貴重な友達を勧誘したりしたわけです。いま思えば、本当に愚かでした。
当然、友達は引きまくり、離れていきました。
当たり前です。わたしが相手の立場でも、宗教にはまった人からの勧誘なんてごめんですから。
これはお金どころじゃない、本当にとても大きなものを失ったと思います。
いまでも、思い出すと申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになります。
ただまあ救い(?)は、わたしがもともと非常に人付き合いのダメな社会不適合者なので、この件がなくても、いずれ別れていた人たちだったかもしれません。
また逆に、カルト宗教時代を通じてさえも、私と友達でいてくれた人への感謝は、深まりました。わたしがカルト宗教を抜けられたのも、その友達のおかげでした。
ここから得た教訓は、なにか信仰を持っても、それは人に押し付けず、適当な距離を保つことが大切、ということ。
それから、逆にもし自分の友達がそういう宗教に熱中していたら、適当な距離を保ちつつも、見捨てないでいよう、ということ。
もし身近な人たちから見捨てられたら、本人はもう頼るところがそのカルト宗教しかなくなり、ますますはまっていくことになるからです。
得られたもの
まず、カルト宗教にはまる人の心理に対して理解が深まりました。
おおざっぱにまとめると、こんな感じ。
1.完璧主義である
ゆえに、「この宗教こそ正しい!」という確信を持ちたい。多くのカルト宗教は、自分のところの教えを絶対として、ほかを激しく攻撃します。
2.依存心が強い
「絶対的に頼れる人がほしい」という気持ちは、カルト宗教に多い、指導者への絶対服従という面と非常に相性が良いです。
3.特別感を求める
この宗教に巡り合えたあなたはすごい!本物はここだけです。という風に、どのカルト宗教も言うんですよね~。そして、それが「ここから離れたら絶対にいけない」というようにまで誘導されてしまうと、カルト教信者の出来上がりです。
こういう傾向がある人は、気を付けたほうが良いと思います。
というか、実際、こういう傾向のまったくない人はあんまりいないので、ほぼすべての人は、気を付けたほうが良さそうです。
カルト宗教は、いつでもどこでもあなたを狙っています(笑)
ハマらないようにするためには、「ここでしか救われない」「こうすれば救われる」は絶対に嘘である、ということを知っておくことかな、と思います。
あとは、宗教、信仰についての理解ですね。
カルト宗教ではありましたが、既存団体への攻撃性や、指導者への絶対服従という問題点を除けば、教えている内容自体は仏教をそのまま現代語訳して伝えているようなもので、良いものでした。
その団体で学んだことと、団体と関係ない学者さんやお坊さんの書かれた仏教関係の書物から学んだことは、いまでもわたしの考え方の重要な基礎を成しています。
それは端的に言えば「山川草木悉有仏性」ということであり、
「信じるものは救われる=信じないものは救われない」は間違っているということ、
だれでもいつでもどこでも救われ得る、ということです。
そして信仰についていえば、誰にでも必要なものだ、とわたしは考えています。
ある人がひどく悩み苦しんでいた時に(わたしはすでに団体を離れていました)、「辛かったら仏教を学んでみるという手もあるよ」と言ったところ、「いまさらそんなものに頼りたくはない」と言われて、考えたことがありました。
要らない人には要らないものなのか?と。
でも、「神とは絶対的な他者である」と、どこの書物か忘れましたが、読んだことがあります。
人が自分の存在について、とことんつきつめて考えて、存在の意味やその実在さえ疑うほどに考えたら、必ず「絶対的な他者」を必要とするのではないかと。
「絶対的な他者」の存在を通して初めて、自分の存在を認め得るというか…
人間はそれなしで存在できるほど確固たるものではないと、わたしは思います。
だから信仰を持っていない人は、「まだ」持っていないだけで、誰にでも自分の「神」を必要とするとき、そして得るときは、あるのだと思っています。
こういうわけで、カルト宗教にはひっかかりましたが、私は宗教、信仰について非常に肯定的に考えています。
特に生き死にの問題を考えるとき、重要な役割を果たすものだと思っています。
あ、いえ、葬式にはお坊さんが必要~とかいう話ではなく。
生きる苦しみや死に際しての苦しみに直面するとき、本当にその人を支えるものは、何かという話です。
その意味で、(カルト宗教を跋扈させないためにも)もっと既存の宗教団体もがんばってほしいな、と思っているところです。