遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざそうとするブログです。

セミリタイア、早期リタイアと「社会的な居場所の喪失」について(2)

タイトルの件、前の記事の続きです。

その2:孤独にどう向き合うか

これは心理面での問題ということになるでしょうか。


私個人としては、人付き合いが苦手で、人と一緒にいたり話したりことにストレスを感じるタイプなので、バッチコイという感じなのですが。


会社に通っている今でさえ、一日で人と会話するのはほぼ仕事の内容のみ。
下手すると「おはようございます」「ありがとうございます」「お先に失礼します」くらいしか言わない日さえあります。


とはいえ、人間嫌いではないので(むしろ好きなので)、人と話したいという欲求は、別のところで満たしています。
友達とのLINEであったり、ネットゲームのチャットであったりという具合です。
特にネトゲは毎晩、3時間くらいやっていて、その間、1/3くらいはしゃべり倒しています。


ただ、早期リタイアを実現して、一日中、家にいることになったら、本当に口を開く機会が少なくなりそうなので、話し方を忘れるかもしれないという心配はあります。


今でさえ、たまに友達と会って遊ぶ時など、長時間、口で話すシチュエーションでは、口がうまく回らなかったり、口から言葉がスラスラ出てこなかったりという問題を抱えているくらいです。


週一くらいはボランティアでも何でもして、口でそれなりの会話を行う機会を自主的に作らないと、やばいなあ…と危機感を感じている次第です。



…っと、これは、「孤独」とはまた別の問題でしたね。


孤独がなぜつらいのか

といえば、やっぱり人間は、社会的生物だからですかね。
もともと、一人で生きていけるようには、できていないということでしょうか。


どうしても、誰か「他者」を必要とする。そういう面があるようです。


ただ、それが本能的な人恋しさなのか、「依存」の対象を求めてなのかは、よく見極める必要があると思います。


前者は生来、身に備わったもので、自然な感情ですが、後者は本来必要のないもので、無用な苦しみを産んでいるかもしれないからです。


それから、「無職だと、人からまともな人間としてみてもらえないかもしれない」という恐れも、この「孤独」の中に隠れているかもしれません。


私が愛読している、「「普通がいい」という病」という本があるのですが、この中にこういう文章が出てきます。

もちろん誰でもわかっていることですけれど、われわれは一人で生まれ、一人で死にゆく存在です。どんなに誰かと愛し合おうが仲が良かろうが、死ぬときは一人である。とすると、この「孤独」というのは、何がそんなに困ったことなのだろうか。むしろ、人間がみんな背負っている当たり前の状況なのではないか。こう見ることができるでしょう。


確かに人という文字は一人と一人が寄り添いあっている図のように見えます。


でも私たちは普段、いつも寄りかかりあって歩いているわけではありません。一人ひとり、自立した存在です。
心だけ、寄りかかりあわなければならない、ということもないと思います。

本来は、心だって、一人でちゃんと自立する強さは持ち合わせている。
自然が、もともと、そういう力をちゃんと与えてくれている。


誰かに寄りかからなければ、「依存」していなければ、立っていられない、というのは幻想だといえるでしょう。
むしろ、ずっと誰かに「依存」していられる、ということが、幻想と言ったほうがいいでしょうか。
誰も、自分自身を支える力は持っていても、自分以外の誰かをずっと支える力は持っていないんですよね。


「依存」から「自立」そして、「さびし」さを受け止めるということ

だから、もし寂しさの原因が「依存」なら、
まず、それを認めて手放し、一人でしゃんと立つ。
そのうえで、同じように「孤独」である他人と向かい合う。


その時、そこに無理のない、人と人との「関係」が築けるのであって、「孤独」はそれを成り立たせるだいじな基盤なのではないかと思います。


二人で居たれど、まださびし、

一人になったらなおさびし、

真実、二人はやるせなし、

真実、一人は堪えがたし。

(北原白秋「真実一路の旅」より)


一人でいても、二人でいても、たくさんでいても、「さびし」。
実はこれが「孤独」の真実の、一つの面ではないかと思います。


おそらくセミリタイア、早期リタイアなどで、仕事から解放され、たくさんの自由な時間を持ち、ほかに気を紛らわせるものがなくなると、これがごまかしようもなく見えてくるのではないでしょうか。


セミリタイア、早期リタイアするとしないとに関係なく、もともとあるものが、見えてくる、そういうことではないかと思います。



でも、「孤独」が持つのはその一つの面だけではない。
上にも書きましたが、「孤独」であるからこそ、相手をまた一人の「孤独」な人間と認め、かかわりあってゆける、そういう一面もある。

おまえと私は たとえば二隻の船

暗い海を渡ってゆく ひとつひとつの船

互いの姿は 波に隔てられても

同じ歌を歌いながらゆく 二隻の船

…(中略)…


わたしたちは二隻の船 ひとつずつの そしてひとつの

(中島みゆき「二隻の舟」)


この中島みゆきさんの歌などは、
「孤独」を、果てしない暗い海をゆく、ばらばらな二つの船に例えながら、
その「さびし」さの深い闇を通して、届くものがある、
ということを歌い上げている、見事な歌だと思います。
(本当にとても力強い歌なので、一度ぜひ聞いていただきたいです。)


「普通でないこと」の「孤独」

「白い目で見られる」ということについて、もう一度、泉谷さんの本から引用してみます。

「普通」という言葉には、平凡で皆と同じが良いことなんだとか、「普通」に生きることが幸せに違いない、という偏った価値観がベッタリとくっついています。つまり、「普通」になれば「普通」に幸せになれると思い込んでいるわけです。しかし、幸せというものには、「普通」はない。なぜなら、「普通」ではないのが、幸せの本質だからです。


「皆と同じように」「普通の人のように」は、働いていないこと。
これが、セミリタイア、早期リタイアをした人の肩身を狭くさせています。


セミリタイア、早期リタイアをする人はまだまだ少ない。
周りを見回しても似たような人はいなくて、自分のような生き方は「普通」ではなく、特異であると感じる。
これもまた、「孤独」を感じる一因になりますよね。



でも、これだけ私たちを縛る「普通」ってホント何なんでしょうね?


人はもともと一人ひとり個性を持って生まれてきているのですから、違って当たり前、別々で当たり前なのに。


無理やり算数のようにみんなを足してみんなの数で割ってみて、「普通」を出してみることはできます。
でもそれは少なくとも、ひとりひとりそれぞれの「幸せ」ということを考えるとき、役に立つものではないですよね。


「普通」に合わせて、一定の安心を得ながら、自分を抑えて窮屈に生きるのと、
自分に合わせて、不自由もめんどうくさいことも甘受しながら、自分の道を行くのと、
どっちが幸せなのか。


上のほうが楽ですが、下のほうが楽しそうです。


マイノリティであっても良い

そうはいっても、全くの前人未到の地を行くのは本当に勇気のいること。


だから、セミリタイア、早期リタイアを志す人は、私もそうですが、前人がどのようにして道を切り開いていったのか、その話を聞きたいと思うのです。


その意味で、この「ブログ村」の「セミリタイア」カテゴリがあってよかったと、私は思っています。


このカテゴリの中で、同じような道を志す人がいるんだと、すでに自分で自分の道を切り開いている人がいるんだと知ることで、とても勇気づけられているからです。


マイノリティで連れもなく、一人寂しく道を辿っていても、「それで良いんだ」と思えれば、気持ちも楽になりますよね。
その意味で、この場をもっと活用していけたらな、と思っています。


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