「余命40年を宣告されました」社会のレールから外れるための理由とは
今日は、何でもしたいことをしていい日。
嬉しいなあ。
しいて言えば、安静にする日。
といっても、いま「したいこと」はダラダラすることだから、ぴったりなので、問題ありません。
昨日、会社から家へ帰って思ったこと。
「もう、フルタイムの仕事は体力的に無理。」
何か特定の病気があるわけではありません(まだ知らないだけかもしれないけど)。
頻脈という症状はあります。貧血も持っています。(たぶん、心臓はかなり疲れ切っている)
これのせいか、15分歩くだけでも非常に疲れます。
今の仕事は座り仕事だから、やっている間は特に問題は感じないけれど、終わって帰宅の途についてみると、ぐったりと全身が疲れているのを感じます。
そして疲れとともに感じたのは、
「ああ、この理由があればリタイアを認めてもらえるかもしれない」
ということでした。
「辞めて何をするのか」
「特定の目的がない・特に勤め続けることに問題がない限り、勤め続けたほうが良い」
という人に対しても、
「体力的に無理です」
ということができる。
何故無職なのか、ということにも、答えができる。
本当はこんな言い訳みたいな理由みつけなくても、もっと自由に、生き方を決められたらいいんだけど。
よく、余命告知された人が残りの人生を悔いのないように仕事をやめてしたいことをする、という話を聞きます。
世間はそういう人を暖かく見守るでしょう。
でもなぜそれは、余命告知されてからしか許されないんでしょうか。
余命告知されていない人が、自分の好きに人生を生きようとしたら、いろんな理由で周りから止められるでしょう。どうやって食べていくんだ、家族もいるんだろう、世間体もある・・・
本当は人生なんていつ終わるか誰にも分からないのに。
なぜ、余命がわかってからしか、世間は人を自由にしてくれないのか。
人は自由になれないのか。
生き方も死に方も、(他人に迷惑をかけない限り)人の自由であるべきなのに、そうなっていないのが現実です。
そして考えてみたら、自由な生き方と死に方を、わたしは知りません。考えてきていないから。学んできていないから。
だから怖い。
レールを外れて生きるということが。
でも、精神的にも限界だと思ってたけど肉体的にも限界になりはじめていることを自覚したんだから、もうしょうがないですね。
怖くても、やってみるしかない。そう思います。