遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

早期リタイアとは何か

夏風邪、絶賛続行中です。


お医者さんの夏休み明けの今日、勢い込んで診てもらいに行ってきました。
まあ案の定、混みこみでしたが、備え付けのテレビを見ながらぽーっと待っていると、案外早く名前を呼ばれました。
診てもらうと、風邪と、それからくる気管支炎でしょう、とのこと。
薬を山ほどもらって帰ってきました。


そして食事して薬を飲んで一眠りして、16時頃に起きて、…あれ、あんまよくなってない。
息はやっぱり少し苦しいし、咳は出だすと止まらないし。
明日から会社なんだけど大丈夫なのかな?
まあ、頼まれていることがあるので、よほどひどくなっていない限り、行くつもりではいますが。


早期リタイアとは、「手段」。でもそれだけ?

私は、「早期リタイア」は手段だと思っていました。
「○○のために、早期リタイアする。」
「早期リタイアして、××になる。」
というように、「目的」「こうありたい状態」があってこその「早期リタイア」という手段であると。


私の場合は、例えば、
「自分の思うように時間(人生)を使えない生活から脱出するために、早期リタイアする。」
「早期リタイアして、自分の思うように時間(人生)を使う。」
というようなことになります。


でも、どうなんでしょう。


ブログ村の「セミリタイア(早期リタイア)」カテゴリは、ライフスタイルカテゴリの中にあります。つまり、ライフスタイルでもあるのでしょうか。


早期リタイア後の状態は、基本的に「無職」になりますが、一般的な無職とは異なり、職探しはしていない。
状態としては「ニート」に似ていますが、その言葉の持つマイナス面はありません。


「定年より前に定職を離れて、その後、定職を持たない。」
といった、「状態」を指す言葉はあるのか。
これは、「早期リタイアしている」としかいいようがないのではないか。


やはりこれはライフスタイル、生き方を示す言葉でもあるのではないか。


「早期リタイア」を、似たような言葉と比べてみる。

「早期リタイアとは何か」を考えるために、似たような概念を持つ言葉と比べてみます。


・「リタイア」と「早期リタイア」の違い
定年を迎えたあとか、迎える前かの違い。人は年齢を重ねると心身ともに衰えていく。その衰えのより少ないほうが「早期リタイア」。


・「無職」と「早期リタイア」の違い
「無職」とは、本来あるべき姿を「職を持つ状態」に起き、そこから逸脱した状態を意味する。「早期リタイア」は本来あるべき姿を持たない、またはそれが「職を持たない状態」。


・「セミリタイア」と「早期リタイア」の違い
早期リタイアの場合、定職を離れたのちは基本的に職を持たない。職を持つ場合、労働中心の生活になるなら普通の「職を持つ状態」であり、非労働中心の生活になるなら「セミリタイア」と言えるのではないか。


・「ニート」と「早期リタイア」の違い
「ニート」は「無職」に近い。要するに「あるべき状態」から逸脱した状態を意味する点が、「早期リタイア」と異なる。また基本的に「ニート」は自分以外の誰かの経済的支援によって生活を成立させているが、「早期リタイア」は経済的に自立している。また「ニート」は労働を経験していないことが多いが、「早期リタイア」は何らかの「職を持つ状態」を経験したのちに、そこからリタイアした状態を示す。



こうして見てくると、「セミリタイア」もそうですが、「早期リタイア」は、「職を持つ状態」に対する姿勢が独特であるように思います。
労働中心の生活からの解放といいますか、ある程度の労働生活を経たのちの、もはや労働をしないことを是とする生活スタイルが「早期リタイア」「セミリタイア」であるといえそうです。


労働からの解放ということ。それは何を意味するか?

「働かずに生きていくなんて、そんなこと、本当のお金持ち以外に許されるはずがない」と、私の家族は言いました。
そこには、「働かざるもの食うべからず」という勤勉な日本人らしい考え、働ける人は働いて当然で、働けるのに働かない人は非常識である、といった視点があるように思います。
そしてそれは世間一般における「普通」「常識」でもあるのでしょう。


でも、労働っていうのはそんなに尊いものなんでしょうか?



生きていく上で必要な労働はあります。
家族のため、自分の大事な誰かのために、献身的に行う労働は尊いものです。
でも、もはや(ひとまず)生きていくうえで必要ではない、誰かのために行うのでもない労働だとしたら?
それでもなお、「働かざるもの食うべからず」という言葉に縛られるべきなのでしょうか?


辛くても苦しくても働き続けることが正しいのでしょうか。
私たちは働くために生まれたわけではありません。
働くのは生きるための一つの手段にすぎません。
本当は、「生きて、何をするのか」「与えられた時間(人生)を何のためにどのように使うのか」のほうがよっぽど重要です。


自らを豊かにするための「早期リタイア」という生き方

最初は、(一部の、生まれながらに恵まれた人以外は)生きるために働くことが必要となるでしょう。
でも、経済的な自立を果たし、そのうえで、もはや生きるための労働が必要なくなったら、その時は「人生を何のために使うか」ということを中心に考えてよいのではないでしょうか。
いや、考えるべきなのではないでしょうか。



別に大層なことをする必要はないと思います。
ただ、早期リタイアによって得られた自由な時間、自由な生活の中で、


・自分に与えられた能力を見つめなおしてみること、
・自分が楽しい、嬉しい、心が豊かになる、と感じることは何かをもう一度思い出すこと、
・そういうことをただ純粋に楽しみ、自分の心に感動の栄養を十分に与えること、
・「自分を豊かに遊ばせること」


そういったことは必要になってくると思います。
そうしている中から、また新たなる価値が生まれてくるだろうからです。


「早期リタイア」「セミリタイア」は、そうするための生き方である、といえるのかもしれません。



「一億総活躍時代」と銘打たれた現代にあって、働けるのに働かないという生き方は、世間的には少し、いやかなり肩身の狭いものです。


でも、新自由主義経済、大量消費社会といったもの…「お金をより多く稼いだものが勝ち」「たくさん働いて、物を大量に作り、大量に買って大量に消費することが正しい」という「常識」が、行き詰まりを迎えているようにみえる今、「あえて働かない」という生き方は、新しい突破口を開く鍵になるかもしれないですね。




…ちょっと言い過ぎたでしょうか(笑)
そこまでいかなくても、もっと、「早期リタイア」「セミリタイア」が市民権を得る時代が早く来ると良いな、と思っています。

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