リタイアしたら、何したい?~創作について~
8日間の夏休みのうち、「やらなくてはならないこと」が14日までに終わって、さあ残りの3日は好きなようにだらだらするぞー!と思っていたら、
夏風邪をひきました。
のどが痛くて咳と鼻水が出て息苦しく、熱はないのですが頭が重苦しい。
冷房を入れないと暑くて死にそうだけど、入れると冷えて辛い。
近所のお医者さんは夏休み。
市販薬を飲んで寝て過ごすしかありません。
することはないから別にいいのですが、好きなようにグダグダするはずだったのに、強制的に休養を「取らねばならない」というのは、やっぱり悔しいというか切ないものですね。
ちなみに「夏風邪は馬鹿がひく」、と言いますが、夏風邪をひいたからといってイコール馬鹿、というわけではないらしいです。
冬にひいた風邪を夏になって気が付く、それほど鈍感なのが馬鹿というものである、ということのよう。
つまり「私は馬鹿」という証明がされたわけではないのです。
やったー!(←ここらへんが馬鹿っぽい)
私にとっての創作活動
「リタイアしたら何したい?」というテーマで最近、記事を書いてきましたが、今日は3番目、「創作活動」について書いてみます。
マズローの欲求段階説でいえば、「4.自己実現欲求」を満たすための活動になるかと思います。
創作とは何か。
自分の中にあるオリジナルの何かを、形にして外に出すこと。
音楽、小説、絵画、彫刻、創作料理、いろいろありますね。
私にとっては、主に文章を書くことです。
いろんな本を読んだり映画を見たり旅行をしたり、心理学や哲学や歴史や民俗を学んだりして、自分が知った「もの」や「こと」や「世界のありよう」。
それを、今度は文章という形で、自分なりに人に伝わるように表現する、ということになります。
なぜそれをやりたいか。
一つには、書くこと自体がとても楽しく、時間を忘れて没頭できるものだからです。
「書く」ことの楽しみ
書くために考えることによって、また言葉を使って書き出すことによって、発想は広がるし、今まで見えていなかったものが見えてくるし、思考の袋小路からの脱出方法が見つかったり、隠されていた自分の本音が出てきたりします。
それはとても面白い体験で、なんというか、地下水脈を探して掘り当てる感覚です。
あるテーマと、材料があって、それをどう表現するかを考えている時。
思考と知識の中を手探りで潜っていって、深く深く潜った先に、なんというか、とうとうと流れる地下水脈のようなものがあるのです。
普段は表に現れず、意識されることもないけれど、常にそこにあって、掘り当てたものに豊かな恵みを与えてくれるようなもの。
水を飲んで初めて、「あ、こんなにのど乾いてたんだ」と思うことってありますよね。
それに似た感じで、「ああ、これがほしかったんだ」と、与えられて気が付くような感覚。
その感覚が、楽しくてうれしくて。
だから何度でも、掘りに行ってしまうんですね。
一度掘り当てたから、それでいいや、ではないのです。
今度はこうやって掘ってみよう、こっちから掘ってみよう、このテーマからだとどうだろう、この題材ならどうなるかな?と、そのたびそれぞれ違った風景が見え、違った発見があるので、それがまた楽しいのです。
そして最後に地下水脈にたどり着けると、ああやれやれ、また来られた、とほっとする。
こういうのの繰り返しです。
副産物としての創作物
つまり、私にとって創作=書くこと、というのはそれを行うこと自体が目的であり、結果としてできる「創作物」は、極論を言ってしまえば副産物であり、その楽しさを追体験するためのツール、ということになります。
旅の記念に持って帰った地図や、旅先の写真を見て、旅を楽しく思い出すようなものです。
ただ、こうやってできた創作物で、ほかの人にも、何らかの「気持ちの動き」を体験してもらえるかもしれないというのは、面白いこと。
それが「地下水脈への道」だったら最高だけれど、そうでなくても「面白さ」とか「感動」とか、時にはちょっとホンワカする気持ちだったりとかでもいい、そういう何かしらの心の動きを伝えられたら、それはとてもうれしいことです。
1.書くことが楽しい
2.書いたもので楽しめる
3.書いたもので他の人も楽しませられる(かもしれない)
私にとって創作=書くことは、一粒で3度おいしい、とってもお得なものなのです。
役に立つかどうかは…?
まあ、「それ何の役に立つの?」「いい年をした大人が、会社を辞めてまで、することなの?」と言われると、困ってしまうんですけどね。
「私が楽しい」以外の効果はまったく期待していません。
ネットの片隅に、よくある「ブログ」「小説」が追加されるだけのことです。
むしろリソースの無駄であるかもしれません。
ただ、私が楽しいことだけは保証されています。
それだけは確かです。
要するにご隠居さんの道楽であり、お遊びなのです。
けれど、お遊び…それも真剣で無心で一心不乱な遊びの中からこそ、
新たな変化、進化、成長、発展への力は、出てくるものではないでしょうか。
「遊びをせんとや生まれけん」
…そう、たぶん私たちはそうやって遊ぶためにこそ、生まれてきたのですから。