遊びをせんとや生まれけん ~ほぼ天涯孤独の早期リタイア~

働くだけの人生に納得できない社会不適合者が、早期リタイアという手段で明るい明日をめざした記録。リタイア済です。

今の日本で「生きる」恐怖~少子高齢化社会に思う~

昨日は嬉しいことがたくさんありました。


一つには、ネトゲで強敵を倒せたこと。
やっぱり、チームで協力して、自分のやれることを最大限やって、強敵を打ち倒すというのはとても気持ちのいいものですね。
倒した後に互いの健闘を称え合い、喜びを共有できるのも本当に楽しいことです。


もう一つは、怪我で療養中だったフィギュアスケート選手の羽生結弦君が、今年4月の世界選手権以来、初めて氷上ですべる姿を見せてくれたこと(24時間TV)。
きれいな3Aジャンプを飛んでいて、順調に復調しているのかなと安心しました。
今シーズンも、どうか彼が大好きなスケートを思い切りできて、彼にとって充実したシーズンになりますように。


さらにもう一つ、記事に嬉しいコメントをいただけたこと。
私にとって文章を書くことは、自分の思いをまとめながら新しい思いや物事を発見していくことで、そして書いたもので誰かの心に何かが響いたらいいな、という気持ちでやっています。
(あ、いや、そんな大層なものではなく思ったことをただ書き散らしているだけとも言えるのですが…)


だから読んで何かを感じてもらえて、さらにコメントをいただけたら、それはとても嬉しくて幸せなことです。本当に、有難うございます。



さて今日は、昨日少し触れた、少子高齢化の問題について書いてみたいと思います。


「老後破産」「下流老人」の存在が意味すること

何かと話題になる、そして現代日本でたくさんの人の関心事となっているであろう「老後破産」「下流老人」。
それらのキーワードは、年老いて心身の自由を少なからず失い、少ない年金、貯金等に頼って、細々と苦しい生活をしている姿を想像させます。


なぜそのような生活を強いられるかと言えば、
・貯金や収入が少なく、またそれらが増える見込みがない。
 (貯金は減る一方、年金は将来ほぼ確実に減額される)
・身寄りがない、または頼れない。
といった原因が考えられるでしょう。


このような状況下では、生きること自体、綱渡りであり、長生きすることがリスクとなります。
これは本来の生物としての自然なあり方「生きていたいと願うこと」が、逆に苦しみを長引かせる原因になってしまうということです。
「いつまで長らえるのか」が恐怖の対象になるのです。



さらに、そうした老人たちの、命綱ともいえる社会保障。
これが一方では、若者たちの生活の安定を脅かしています。


1950年時点では12.1人の生産年齢人口で1.0人の高齢者を支えていたことになる。これが2015年時点では2.3人。さらに2060年の予想人口比率では1.3人にまで減少する。大よそ4人で3人を支える計算。

老人は増える一方、若者は減る一方。
若者の社会保障費負担は増え続けるばかりです。


また、「老後破産」「下流老人」の姿を見れば、自らの老後にも不安と恐怖がつのるでしょう。
その結果、重い社会保障費負担を背負いながら、何とか余剰資金で老後資金を貯めようとする。そのために必死に働かねばならなくなる。
職を選んでいる余裕は、このとき、ほとんどありません。
このため、安い賃金と長い労働時間という不当に低い待遇でも、そうした職につき、また我慢して勤め続ける若者が多いのではないでしょうか。


そして、多くの労働者が、老後への備えとして余剰資金を貯蓄に回さねばならないこの現状が、「みんながお金を使わない社会」つまり、モノの売れない社会、デフレ社会へとつながり、日本経済全体の停滞、地盤沈下へとつながっています。


モノが売れない→企業が儲からない→勤める人の給料が上がらない→(最初に戻る)


デフレを解消しようとしていま、安倍首相と黒田日銀総裁がやっきになってアベノミクスを推進していますが、まだ現時点で、目に見えた効果は出ていません。


(実際には、主に食料品で、「モノの値段は変わらないけれど、中身は減っている」ということに気付いている人は多いと思います。そういう意味では、ひそかにインフレは進行し始めているのでしょう。けれどそれは、なかなか、労働する人々の賃金上昇には結びつきません。)


老人も苦しみ、若者も苦しみ、日本全体がデフレに苦しむ。
残念ながら今の日本は、誰も幸せになれない状態が進行しつつある、と言えるのではないでしょうか。


原因の少子高齢化、対策は

日本全体が今苦しんでいる、その原因ともいえる少子高齢化。
なぜこんなことになったのか。


高齢化については、経済的発展と、医療・科学技術の発達ということで説明できると思います。
少子化については、



・核家族化
・子育てにおける経済的負担の大きさ
・女性の社会進出による晩婚化
・家庭を持ち子供を持つのが当たり前でなくなった(価値観の変化)
などが挙げられるようです。


まとめると、結婚や出産をしなくても白い目で見られない社会になった、さらに(核家族化や家庭の経済的負担、女性の時間的負担により)子供を持つことが難しい社会になった、ということでしょうか。
(わたしなどはその価値観の変化により恩恵を受けている立場ですね)


これらに関して政府は、有効な手を打てていません。
それどころか一億総活躍社会と言って、女性も働くことを奨励するなど、一見、逆行しているようにさえ見えます。


経済的負担についてもそうです。
子供を産み育ててくれることが期待できる若者が、上記したように、重い社会保障費と劣悪な労働環境に苦しんでいても、彼らへの支援は手薄です。



なお、「移民により、労働人口の増加をはかる」というのが政府の方策の一つですが、何か忘れてはいないでしょうか。


移民だからといって、社会保障費を軽減されたり賃金が上がったりということはないでしょう。つまり、子を産み育てる経済的負担は変わりません。
さらに、移民も年を取ります。十分な貯金や年金保険の準備のできなかった移民は、「老後破産」「下流老人」になり、社会保障費を必要とするでしょう。


まさか、「若くて活きのいい時だけ日本に来て働いて、低い賃金だけど社会医療費も負担して、たくさんものを買って経済を活性化させて、年取って働けなくなったら自分の国に帰ってね」というつもりなのでしょうか?
あまりに自分たちにだけ都合よくありはしませんか?
そんな条件で移民が来るでしょうか…?


そもそも、社会構造に問題があるのではないでしょうか。
それを解決しないまま、移民で労働人口だけ増やしても、穴の開いた容器に水を入れ続けるようなもので、何の甲斐もないのではないでしょうか。


根本的な解決策はあるのか?

先ほど、少子高齢化の原因を、結婚や出産をしなくても白い目で見られない社会になった、さらに(核家族化や家庭の経済的負担、女性の時間的負担により)子供を持つことが難しい社会になったから、とまとめました。


ここから解決策について考えてみます。
まさか、今更「結婚や出産をしないと白い目で見られる」社会に戻すのもおかしな話なので、「結婚や出産をしたくなる」社会づくりが必要なんでしょうね。


これはそのままもう一つの原因への対策にもなります。
例えば、


・核家族でも子育てを支えあえる体勢への支援(「スープの冷めない距離」に住むことを推奨する等)
・子育て費用への援助、環境(保育園の数等)の整備
・女性が働きにでなくてもよい家庭づくりの支援(扶養手当をもらいやすくする等)


…って、こうしたことに関する知識や経験のほぼない私が考えるようなことは、とっくに議論され、もっと良い案が出てきていそうなものですけど。


つまり政府がもっとお金を使って、全身全力で結婚・子育てを支援したらよいのではないでしょうか。


ちなみに私は独身・子供なしなので、あまり偉そうなことは言えません。
ただ、「子供が成人するまでの衣食住、教育、医療に関しての費用は一定金額まで国が保証します」とか言われたら、少し考えます。(相手がいませんけどね)


日本政府にもお金がない?
「パナマ文書」を精査して、たくさんあるところから取ったらよいのではないでしょうか。取りやすいところから取る、のではなくて。
お金は、あるところにはあります。


少子高齢化は社会全体の問題です。
企業さんもお金持ちさんも、自分たちだけのために、人件費の削減や節税にいそしんでいないで、「我々の未来のために我々が子育てを支援する」くらいの気概を持ってほしいと思います。


(どうも最近、「グローバル化」の言葉のもとに、社会における企業の役割と言うことを重視しない企業さんが多いようです。
労働者は安く使い捨て、国内に人が足りなくなったら海外で使い捨て、または国内に移民を呼び込んで使い捨て、そして自分たちだけ莫大な報酬を得つつ脱税に近い節税もしつつ巨額の富を独占する、というのは、どう考えても人の道にもとるのではないでしょうか。というか、自分たちの首を結局は締めているということに気づかないのでしょうか。
そういう方たちには、どうかノブレス・オブリージュという言葉をかみしめていただきたいと思います。)


支えられる側にも覚悟が必要

そして、支えられる側、つまり高齢者の方たちにも、現状の認識と、それによる覚悟が必要だと思います。
定年を伸ばして、もっと働け、という単純な話とはちょっと違います。


上にも書きましたが、このままいけば若者の負担は大きく、やがて高齢者を支え切れなくなる日が来ると思われます。
そうでなくても、今現在も重い負担に苦しんでいる。
このままでは、これからももっと重い負担に苦しむことになる。


そういう人たちに、支えられるだけでいいのでしょうか。
年金、社会保障という、ある種の既得権益に頼っているだけでいいのでしょうか。
そこには、「自分だけ良ければ良い」という気持ちが隠れてはいないでしょうか。


かつて老人は、経験と智慧で人々を導く力を持っていたり、あるいは家庭の中で家事や子育てを支援したりして、感謝され必要とされていました。


一方で、「姥捨て山」のように、家や村などの共同体で支え切れなくなったときは、見捨てられてもいたわけですが。
今は、見捨てられない代わりに、昔のように家族や社会を支援し感謝され必要とされる、という道が、少なくなっているのではないでしょうか。


生きるためのお金は得られている。
でも、やることはない。
だから家で、あるいは老人ホームでテレビばかり見ていたり、パチンコで気を紛らわしたりする。
これって、幸せでしょうか。


浅薄な知識で生意気なことを言って、申し訳ないです。
でも、私は、こうして生きることは、不幸なことではないかと思います。


存在価値ということ

人の存在価値とは、何でしょうか。


お金をたくさん稼ぐから偉い?
少ししか稼げないから価値が低い?
働くのは尊い?
働かない人は価値がない?


いろいろな考えがあるでしょうけれど、私は、「人に必要とされること」がその一つだと思います。


何らかの能力で誰かの役に立って、感謝される。
あるいは家族や知人に愛されて大切にされることも、必要とされること、です。


だれかに、あなたにいてほしい、と言われること。
これは幸せなことであり、人の存在価値の一つではないかと思うのです。


年を取って、身体の自由が利かなくなったり、新しいことを覚えられなくなったって、できることはたくさんあります。
実際、活躍されている方もたくさんおられます。


自分に与えられた能力でできることを精いっぱいやって、誰かの役に立つこと。
前に、「働くこと」の本来の姿は、こういうことだと思うと書きました。
高齢者の方々にとっても、こうしたことは生きがいにもなり、元気をもたらしてくれることではないでしょうか。


そしてまた、もし、そういったことが全くできなくなったとしたら。
誰にも必要とされない存在になり、それを自らも良しとするようになったら。
そのときは、「退く」ときなのだと思います。


誰からも必要とされず、なにものも為しえず、今後も為しえない、そういう状態で、誰かの負担になりつつ存えることは、それは逆に、辛いことであると思うからです。


自分に与えられた能力を最大限に使って、誰かの役に立つ何かを為すことができたなら、いざ力尽きるときも、満足してむかえられるのではないでしょうか。


今の日本社会で「生きる」恐怖から逃れるすべは、その「覚悟」にあるのではないかと思います。



※もしかしたら、高齢者の方々に活躍してもらうことは、それを支援する人が必要などの理由で、現在よりお金のかかることなのかもしれません。テレビを見せておいたり、寝ていてもらうほうが、経済的なのかもしれません(ひどいことですが)。
でもそういうお金は、政府が出していいと思います。あるところには(以下略


生涯現役ということ

「生涯現役」という言葉がありますが、本来の姿での「働き方」で「一生働く」というのは、私は大賛成です。


今の日本社会、長生きすることが恐怖の対象となる社会で、それでも生きたいがために苦しい労働を一生続けていかなくてはならない、というのとは、根本的に違うからです。


私自身も、生涯現役であることができるように、早期リタイアすることを含め、準備をしていきたいと思っています。
今の会社、今の仕事では、定年が延びたとしても、一生働き続けたい、とは思わないですからね。

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